心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

「観察」とはなにか

そもそも、外界の現実などは、内界の反映、色付けに過ぎない 人は、それに一喜一憂している。夢みたいなものだ。

一喜一憂しないで、内界を整えるために、呼吸、身体を整えるのが最適だ。 世の中を操作するのではない。呼吸に同期して、「無常」を観察するのだ。

 


観察を「なにかがある」物として見るのではなく、現象が無くなる性質のもの、すなわち無常であるというところまで、すすめる必要がある。

 

それが正しい観察だ。 エゴイズムはひたすら、なにかを見せてくる。しかし、まやかしだ。しかもすぐに消えていく。あなたは1000回前の呼吸を覚えていないのと同じくらいに曖昧でひたすらめちゃくちゃなものだ。それは、頭の中のとっちらかった考えや自意識過剰も同じだ。あるはずはないが、あるとしてしまう。しかし、やがて100時間前に考えていた思考や理屈をまったく同じであることに再現などどんなに頭が良くてもできない。

 

しかも、神経症患者は、ないものをひたすらある、あるとしてしまう。それは、欲望や自分の悪業をひたすら、ある!ある!と精神交互作用で強めることだ。しかし、これらもまた、無常である。

 

実際のところ、神経症患者は、その症状が落ち着くと、嘘のように健康になる。

私も神経症の発作の時は地獄のような体調不良になるが、過ぎ去れば病院に行っても検査してもなにもでなかった。

観察のフィルターを、きちんと無常を基底にする。神経症患者はひたすら観察して、ないものや無常なものを、あるものとして、ひたすらビクビク不安や恐怖の「とらわれ」になってしまう。

 

しかもそれは、あらわれた消えるもの。 無常の流れであり、現象とは滅するもの。これを知る、観るのが、「観察」である。

 


しかし、神経症患者は、まったく逆に、ないことからひたすらあると自己暗示する。

 

観察して、無常ではなく、ひたすら「ある」とし、意味までつけてしまう。あるのは、己の業、煩悩である。それも消えゆく性質である。

 

悪業や煩悩に気づかない観察は、観察ではない。

無常なのだから、すべては、消えていく現象であることを観察し、いちいちとらわれる価値や必要がないことを、現象の性質を体得するのが、呼吸瞑想(呼吸しながら無常を観察)である。これは、神経症患者に役に立つ場合がある。観察のフィルターを正しく設置するには、現象は無常である、という点におく必要がある。