現象とはなにか ショウペンハウア
仏教でも、世は移ろう、無常な「現象」として取り扱う。究極的には、無、すなわち無常なのであるが、人は、よく内面を見つめるというが、それは不可能だ。
というのも、ショウペンハウアが言うように、内面を主観的に把握する行為、認識の主観は、なんら物自体ではなく、実体的な存在ではない。
分かりやすい説明なら、脳髄のエネルギーが、たんに集中する焦点でしかない。
これは、まさに神経症が、ひとつのことにとらわれた状態をそのまま示している。これは、なんら現実でも主観的でもない、ただの現象である。
認識の主観自体が無(無常)なのに、いったい、誰がなにを捉えられるのか。
それは、ほんとうの自己認識ではない。
自己認識は、認識主観には出来ない。
しかし、逆に、内部の意志、物自体の現実は、なにをも認識せずに、自己認識を認識しない。
これも、わかりやすくいえば、作為のない無作為の、忘我的自己のことだ。世界の本質は、なんら客観性なしに存在してしまう。というより、存在していないともいえる。カントによれば、世界はたんなる現象と、その現象の源に「物自体」という、知覚、認識してない次元があるという。
具体的に言って、現実にコミットするとは、変な自己認識や意識が介在しないでいることだ。物自体に人がコミットしているとき、人は忘我している。我々は基本的に、自我の領域で「現象」を漂っている。その範囲内では、なんら物自体の現実性や世界に迫ることはない。
世界、現実とは、実は、知覚や認識なしに存在しているといえる。我々が認識する「世界」は現象である。それは、無常で、移ろう、虚しいものだ。
神経質な考え方や認識は、主観や認識に完全に捉われている。