心の書庫

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主観とはなにか


なお主観とか、体得とかいう言葉の意義について、少し説明を加えておかねばならない。

そもそも主観または体得ということは、感覚、気分であれ、反応、行動であれ、そのもの、その事柄自体の意味である。 批判を離れた直観とか自覚そのままのものである。

 

禅で初一念とか、近重博士の一段論法
とかいうのもこのことであろうと思われる。自己の近視に対して、何の観察、批判もなく、そのままに用を足していられるもの、その自覚そのままが主観である。 どこに自分の胃があるかということを気づかず、食欲に従って食べる、これが胃の健康であって、そのままの主観である。

胃部の不快または爽快を告げるのは、すでに異常である。自己を観察批判して健康だとか、異常だとかいうのは、す
でに客観的であって、自己を第三者として、外界に投影して観察したところの結果である。

 

私たちが自分を少しも批判しないで、自分の頭の存在を確認している、これが主観である。

この時にはじめて目の前に飛んでくる石をも、とっさの間に避けることができる。これが体得である。
これに反して、顔を鏡にうつして、その位置、形状を知ることは、自己を外界に投影した客観的批判である。このときにはヒゲをそる自分の手さえも、自由自在に働かなくなるのである。 また私たち
は平常、何の考えもなく、現在自分が覚醒している現実にあるものと自覚している、 これが主観である。

もしもう一度自分が現在夢であるか、あるいは現実であるかということを疑い、これを批判しようとしたときには、ますます迷い、ますますまどって、たとえ自分の体をつねって、痛かったからと
て、けっしてこれが夢でないという証拠にはならないのである。

 

すなわち主観、体得そのままのもの
には、まどいはなく、客観的の批判には、常に迷いがともないやすい
のである。
老子が、「宇宙の本元すなわち真理を虚無と名づけ、無名という。しかもすでに無名という名目があっては、それはもはや本体ではない」という意味のことをいっている。森田正馬

 

感想

 

大抵の場合、悟ったとか、治ったとか、主観的に、身体の不快感を観察しているときは、迷妄である。

たとえば、胃部に「不快感」はあっても、癌や潰瘍であることにはならない。

さらにたとえば「頭が重く痛い」とき、なにか、脳の病気だろうか。

検査しても、そこに客観的な病理がないけれど、意識や感覚は、それにこだわり、強めてしまい、果てには「異常」だと感じたり、必要以上に、その感覚を「どうにかしよう」とする。

主観的とは、実は、観察ではない。ハッとしたとき、さっきまで、没入していた、という体験や体得である。だから、純粋に主観的である時、人は、客観的でも主観的でもなく、じかに、リアルに接して、鏡写しに人、自他を見下ろすことはない。

神経症者は、とくに、どう見られるか、とか、自己を「主観的な客体」に置き換えてしまうが、これは、なんら純粋主観ではない迷妄、妄想の類いである。あげくに、症状、強迫を現実にしてしまう。

それは、「主観的な客体」で、そんな迷妄を「理想」に一致することは、死ぬまで不可能であると悟るべきであろう。

 

主観とは、判断や感覚なしに、「そのことがらそのもの」を生きることであり、それ以外ではない。

 

神経症者は、自己の感覚や身体ばかりを鋭敏に主観的に強めているだけで、残念ながら、まるで無意味である。本当に、内臓疾患や脳の病気ならともかく、客観的に医学的に異常がないのなら、それは、幽霊を自分で勝手に作って、幽霊がいると騒ぐようなものでしかない。

 

神経症者は、異常に拘るだけの、異常な性癖であると私は個人的に感じている。周りにも謎で、自分も他人も役に立たない異常性癖に近い。病気というより、無意味な暇つぶしに近いのかもしれない。