心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

神経過敏のしくみ

精神の調和作用

 

この原理はまた一面より見れば、精神の調和作用ということによっても説明することができる。屋外のブリキ屋の音はやかましく感ずるけれども、自分でたたくブリキの音は、自分の耳の近くである
にもかかわらず、邪魔にならないのはなぜか。これは自分でたたく音には、打つのに相当して注意が
緊張したり弛緩したりして、精神がこれと一致調和するためである。

 

いま、屋外の音に対してやかましさを感ずるときに、自分から進んで、これに注意を合わすなら、間もなく精神はこれに調和し、その音をききながら、読書なり、計算なりをすることができるようになる。また船中でも船の動揺に対
して、自分の身体運動でこれと調子を合わせれば、はじめは有意的注意であるけれども、間もなく無
意注意となって、船の動揺を感じなくなり、船よいをもよおすことはない。

 

自分で船をこぐときに船よいを起こさないのも、これと同理によるものである。また急流の橋の上に立つときに、自分がその流れの中に吸い込まれるように感ずるのは、水の流れと目の運動とが一致調和しないためである。

 

けれどもこのとき、もし水の運動にさからわず、注意を緊張して、その速度に自分の目の運動を調和させれば、はじめて不快を感じないようになるのである。また列車に乗って、自己の身体の進行を感じないのは、自分が列車と同速度に進行しているためである。 列車が急に停止するとき激動を感ずるのは、列車と自己との運動が、突然一致を失うためである。

 

列車でトンネル中のゴウゴウの音にも慣れて、音に対して無関心になったものが、駅に着いてシーンと陰性の無声の音をきくのは、これまでの無意識的の注意緊張が急に弛緩の状態になるからである。


以上の関係は、すべて外界と自己との相対性において、その刺げきと注意とが一致し、調和すればするほど、 次第にその自覚を失い、 それが互に相さからうことが大きければ大きいほど、ますますその感覚が強くなるものである。
神経質患者が、感覚過敏となるのもこの理によるものであって、実際は器質的に過敏となったものではない。

すなわち、私が仮性過敏と名づけた理由である。

 

感想

神経症は、外界との相対的な不一致による、仮性過敏感覚である。

症状より、感覚の相対性による、一種の「抵抗」である。

時間が経てばウソのように治るのは、最初から、仮の感覚異常、感覚過敏だからであって、繊細さではなく、ヒポコンデリー基調による、ある種の異常性格である。