心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

知性化は防衛である

なるべく「自分なりの考え」を挟まないほうがよい。100%は無理だが、我で凝り固まっても良くないだろう。わざわざ「我」のワンクッションを置く必要性があるのか。知的に振る舞おうとして、思考優位に陥ってしまう。知は、「灯り」であって、同一化はできない。インテリはよく知識を世の中に適応できると考えるが甚だ間違いである。知識や知恵があると「解像度が高くなる」だけである。だれが、ライトスタンドや懐中電灯で、世の中を、変えられると思うか。照らすだけである。知識欲は麻薬と似ている。尽きることはない。答えが見つからないことを頭でひたすら考える。科学や宇宙が完全に解明できるわけでもやく、知識のリソースが高まれば世は太平なりと安易なものではなく、むしろ儘ならない。だが、インテリになりたがる。「見下す」から。知識の奴隷、我欲そのもので、知識欲をひたすら掻き混ぜたところで、結局、宇宙や身体のすべてはわからない。

 


神経症者は、人生直面するのが苦手で、回避行動によりさらに苦悩を強化する。回避行動は、知性化や、思考欲に現れる。

 


直感的な自分や人生や、真理や摂理、生理に、「自分の見解」を入れたがるが、余計なバイアスがかかる。だから、頭の中で、メタポジションでの虚栄心や優越感により、知恵や道徳で勝ったことにする。苦悩に直面できない。強迫神経質に、知性化という防衛規制がある。まさに、そのことだ。いちいち「我」を挟んでしまう。回避ぐせだ。いちいち科学的に振る舞って、世の真理や摂理を無視してしまう。

 

 


知恵ある立場というメタ的な立ち回りやポジション取りではなく、「愛に生きて傷つき苦悩する」ことができない。世の中の価値基準に疑問を、抱きながら、しかし、自分なりの幸せを身勝手に見出したがるが、人は実は、弱く身を寄せ合う素朴な生き物でもあるだ。だが、負け惜しみを自覚したくないから、幸福そうな身内や世の中の人より、違う価値基準を勝手につくる。それが、神経症的、強迫観念的、自分ルール、こだわりである。だから、アドラーが権力欲や嫉妬を問題にしたのは間違いではない。

 


こういう「中途半端に賢い」無自覚なエゴイスト、ナルシストは最後に動物、ペットや医学しか信頼できない…山小屋や人里離れた生活みたいな、厭人的な「人はやはり信頼できない、嫌い」なんていう、ありがちな生半可人生観に至る。そんな自分も欲を持った人なのである。

 

他方は自分はイノセンスな存在だと勘違いしている。インテリの自己欺瞞。予定調和。

 

フロイトやEフロムが匙を投げた(悪性)ナルシシズム神経症である。こうなると、暴力に同一化して、治りづらくなる。神経症的人格は、自分に分が悪いと、ひっそり暮らすようになる。「また、傷ついて恥をかいたら…」

 


傷ついて恥かいて愛に生きて傷ついている人より優位になりたいがゆえに、俗物より「我が上」というたんに生き死にの優越、生存意識だけになってしまう。

 


ドキュメンタリーで自分みたいにかわいそうな人を見つけて、自分が直面する苦悩から回避する。人に置き換えて、自分に関しては黙秘するかすり替える。転換性のヒステリに近い。

 


苦悩に執着して、さらに勝ち誇るようになるとタチが悪い。

 


無意識に、穏やかで冷静な立ち回りをして、無意識に人より優位に立つメタポジションを身につける。知識や苦悩に、価値づけ、意味づけして、社会から疎外されたポジションになんの根拠なしに、居直るようになる。居直らないにしろ、冷静なふりや平静を装うようになる。「あんな苦しんでる人よりマシだ」「あんな下等な奴よりマシだ」と…こうなると治るのは大変だ。