心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

治る前の心 自信など光など必要ない

(患者)かえりみれば、過去三年余、がんこな強迫観念に悩まされて、悪戦苦闘し、 何度か絶望のふちに身を投げようとした私であった。けれどもいまは、 森田先生の絶大な力によって迷夢からさまされ、生の前途を示す微光を見出すことができた。ただこの微光(自信)は、暗黒の中における細い一すじの光であるに過ぎません。私はこれをたよりとして、おぼつかなくても、定めなき、人生の旅を行こうと存じます。 思えばこのおぼつかなく定めなきことこそ、人生のあるがままの姿です。 その定めな人生のときどきに応じて流動してゆくのが自然の心である。


(評この自信をすて、微光を見つめてゆくことがないようにならなくてはいけない。光のまん中
にいれば、けっして微光などは見ない。 微光などを見てゆけば足もとの穴に落ちる。
自信とは、既往の成功の経験をもって、未来の成功を予期するものである。昨日あの男に相撲に勝ったといって、明
日はどうなるか、けっしてわかるものではない。臆病とは、その反対に、以前に思うようにならなかったことによって、未来を心配するものである。けれども私たちは、常に努力によって、未来の成功
を一歩一歩とかちとっているのである。ただ私たちはその時どきの流れにしたがってゆけば、喜びもなく憂いもない。)
入院四十七日間で全治退院した。

 

感想

 

患者は、治る前に、希望が見えたとか救われたとか、光が見えなどと語り出す場合がある。一見するとポジティブに見えるが、実はまだまだだ。

 

私も経験したが、治りかけると、嬉しくなる。人だから当たり前だ。しかし、症状を、一喜一憂して、「治ったか、大丈夫になったかもしれない」「嬉しくなる」ときは、実はまだまだだ。

この評が語るのは、患者が、主観的な迷妄、理屈や光や気分で、「治ったか治ってないか」を一喜一憂しているのを正そうとしている。

神経症者は、「意識」によって、病気を精神交互作用で、増幅させるのだから、「躁転」して、「自分は大丈夫になった」と自己暗示してしまう。これは、たんに、今まで世界を暗く見ていた人が、とつぜん、光ばかり見るようになっただけで、主観的でしかない。

私たちはその時どきの流れにしたがってゆけば、喜びもなく憂いもない、と言う言葉は、仏教の悟りのようであるが、健常者は、いちいち「自分は大丈夫か大丈夫じゃないか」など、いちいち観察はしてない。だから、もう、治りかけると、自己暗示で、無理矢理「光や自信が湧いてきた」などと、迷妄を言う。すなわち、神経症者は、自己暗示が強い。自己暗示をさらに捨て去り、「あるがまま」であるなら、それは、「喜び」も憂いもない。喜びがあるとは、必ず憂いがある。光や自信というありもしないことを、自己暗示してはいけない。たんに、「なりきる」ことが必要だ。色眼鏡で、いちいち、光だ闇だと騒がない。観察しない。自己暗示しない。治りかけると、明るくなりたがるし、嬉しくなるが、まだまだ足りない。主観的な光は他人には見えない虚妄である。光のまん中
にいれば、けっして微光などは見ないという、評は素晴らしい。「光を見るのではなく、光そのものになりきればもはや見ない」というのは、自我である私が、無私、無我になる境地を言っている。神経症者に必要なのは、この「境地」である。見たり考えたり観察したり、神経症が治ったか治らないかを気にしている間は、良くならない。我々は、安らいでいている時や、嬉しいときに、「自分は安らいでいるか否か」「自分は嬉しいか否か」などいちいち確認、観察はしない。「そのものになりきる」のが、大事だと評されている。神経症も治るまでは、きちんと、恐怖や不安から逃げずに、つっこむこと、成り切ってしまうことだ。