心の書庫

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学問について 

ニーチェに惹かれるというのは、ひとえに「貴族的」ということだろう。そういう表現自体、文学に類する言い方になるが、そうは言っても、外的価値に委ねて自己救済しようする甘さ、すなわち「奴隷」が学問に溢れている。それは、悪戯に「色眼鏡」を増やすようになるだけで、なにも見えない。

 

自己を救うために学問をする、という人が案外いる。病んでるから哲学とか言うひとは勘違いをしている。自己を救うのは哲学ではないし、学問的欲求として不健全だ。仏教、文学、哲学も、そういう「自分が救われたい甘さ」から、自由になれる人が少ない。天皇制やマルクス主義キリスト教、資本主義と言うが、結局、ほとんどの人がたんに利己的な自己救済の「物語」を語るだけである。

 

森田正馬も、救いの哲学ではなく、あくまで仏教的な不浄に直面するものであり、自分の悪や醜さに向き合うようなものである。神経症も「治したい」ともがく程、ドツボにハマる。「症状をなくしたい」とさらに症状が強まる。頭を良くしたいと、勉強をしすぎ、頭をよく見せたいともがく程に、馬鹿らしく見えるものだ。まったく逆効果なのだ。

 

ニーチェからしたら、自己自身を恣にする貴族性が足りないと言うことになる。哲学部の人が、なにか陰湿で周りに線引きしていたり、密かに見下していたりする場合がある。こういう「卑しさ」が、俺は納得出来ない。周りを馬鹿にするのが「学問」なら、たんに心理的欲求不満であり、怒りや利己心が目的なだけである。学問がたんに、心理的欲求の従属にしかなってない。神経症的努力とは、「他を利用する」ものだ。ひたむきな努力は、利己心や目的や意味を超えて、それに打ち込む以外にはない。

 

坂口安吾の「文学のふるさと」を読んだ時、「救いを求める」ことの人の弱さ堕落しても、堕落しきれない「弱さ」を知る。しかし、それでも、その「弱さ」こそ、人の救いなさ、慈しさ、愛しさ、馬鹿馬鹿しさ、醜さ、すべての現れである。安吾はだらし無さを、正当化したのではない、生の実相に、エゴイズムに、不浄に直面せよ、と言ったのだ。森田正馬も、たんに人間の予定調和を言ったわけではない。人の弱さや醜さあっても良いともがく生き様が必要と説いたのだ。実際に、森田正馬は、死ぬのは怖いよ、と泣きながら仲間や弟子たちに囲まれて「無様」に死んだのだ。それが、ありのままでなくして、なんだろうか。森田正馬が言いたかったのは、その生き様である。