心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

性格というのは煩悩そのものである スマナサーラ

 

性格というものは、貪瞋痴という煩悩で形成されるのです。しかし普通の人間には、この三つの煩悩の理解も出来ないのです。単なる欲を向上心だと言ったり、あるいは実際は欲に走っている人を、たいへん明るくて活発な人だと言ったりする場合もあります。怒りに操られている人を、努力家、我慢強い人、改革者、英雄、などのように誤解することも多々あります。無知な人を見破れない場合もあります。そのときは、欲が少ない人、控えめの人、落ち着きがある人、という風に理解してしまうこともあります。

 


貪瞋痴があらゆるかたちに無数に顔を変えて人の性格として現われます。一般的には、「性格というのは煩悩そのものである」ということが理解されていないのです。

 


これは、煩悩のアーサヤ(前号の注を参照)としての働きです。性格の核をアヌサヤと言います。 

 


全ての生命が持っている、表面に現われてこない完全に随眠状態にある性格が、その核です。

 


性格を正しく理解しようとするならば、表層だけではなくその核も知る必要があるのですが、残念ながら我々には表層の性格もそう簡単には理解できないのです。仏陀のみが、性格の核を知る能力を持っているのです。

 

 

 

このエピソードを読んで、サーリプッタ尊者が間違ったと思ってはいけません。究極のインテリタイプのサーリプッタ尊者が、論理的な結論を出したのです。「ものごとの美しい側面だけ観る能力のある人に醜い側面も観られるように訓練させれば、ものごとをありのままに観られるヴィパッサナ―の智慧が生まれる」と思ったのです。しかし、この比丘にはものごとの醜い側面を観る能力は、全く無かったのです。不浄観相法は、聞いたこともない外国語で話しかけられたようなものでした。

お釈迦さまは、この比丘の見慣れている見方である、「ものの美しさを鑑賞する」という方向を活かして指導したのです。サーリプッタ尊者が期待していた「無常に辿り着く」ことに、いとも簡単に至ったのです。この比丘は芸術家でしたので、論理的な話にはついて行けなかったのです。お釈迦さまは、彼にきれいな衣を着せて、ご馳走を食べさせて、美しいものを見せて、精神的に落ち着いてもらったのです。彼の芸術能力を思う存分活かせるようにしたのです。性格さえ知っておけば、人を育てる、導くということは難しくはないのです。人の性格が読めないことが、我々にある、乗り越えられない難関なのです。 スマナサーラ

 

感想

 

世の中の都合の良いことばかり見て、不浄を見ないことは、神経症にも通ずる、無明、無知である。主観的に、エゴにとらわれて、勝手に苦しむ。欲とは苦だからである。無常なものに執着して勝手に苦しいと騒ぐことほど馬鹿らしい話はないが、神経症的な人は、執着に気づかない。