心の書庫

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高機能自閉症

高機能自閉症 

 


高機能自閉症とは、自閉症のうち知的発達の遅れがないタイプのことです。診断を受けずに大人になる人も多い一方、高機能自閉症の特徴のために生きづらさを感じる人もいます。重要ポイント。

 


ポイント

発達障害 自閉症は、常同行動とこだわりと

コミュニケーション不全。

 


モデルケース

 

 

 

 

 

 

 

 


ケースA

 


4人家族 みんな発達障害 家は家庭機能不全気味 

 


A母

自閉症スペクトラム トゥレット(併発しやすい)

 


B父は自閉症スペクトラム多動、注意欠乏傾向+二次的な自律神経失調 アレルギー

 


C妹

学習障害

 


D長男

自閉症からくる二次的メンタルヘルス アルペルガー的

 


具体的に?

 


コミュニケーション不全

同じことばかりこだわり行動。生きづらさ、不器用。

 


感覚過敏と鈍麻(変なことに過敏で、普通のことに無感覚)

コミュニケーション不全からくる癇癪。

 


とくに、想像力、柔軟性がない。話してもいつもおかしい。

 


 過敏性だから、話しても理解が難しい。

わけのわからないことで過敏反応 急な対応に弱い。 

 


冷静になって会話や気持ちを理解してもらえるなど夢のまた夢… 「人の気持ちを考える」なんて、ぶっちゃけ話すだけ無駄(笑)

 


笑いごとではない

 


そもそも会話成り立たない。なぜか?

 


基本的に、想像力がない、人の情緒や気持ちが分からない。言語能力。

 


音楽や本が分からない場合がある。

人とコミュニケーション取れない。決まりきった仕事はやれるだけマシか 整理整頓片付けは無理。高機能自閉症は、わりと社会人でもある。

 


我が家の例

 


階段や扉の前やよくわからないところにものがある 片付けてもこだわり行動しかない ものが捨てられない ガラクタばかり 迷惑行為がハッキリ言うと多い 頓珍漢的外れ 勤勉といえば勤勉だが、たんに決まりきった型から抜けられないだけとも言う

 


自閉スペクトラムの中心となる症状は、「社会コミュニケーションの障害」と「限定された反復的な行動」の二つです。exこだわり 数字 指差し ドアの開け閉め 

 


何のためか?

刺激や安心感らしい。定型には理解不能

 


自閉症スペクトラムとしての注意欠如について。

 


スペクトラムとは、連関。かかわり。だから、二次的障害とか、併存してる問題がたくさんある。

 


多動性障害(ADHD)には、不注意、多動性、衝動性の三つの症状があります。

 


自分も発達障害的傾向があって、ストレスから体調が安定しない。自分は自覚症状はあり。精神問題や障害の知識は最低限ある。

 


発達障害なのに、二次的な精神障害の診断で精神障害の投薬治療やってる人があまりに多い。俺も昔はそうだったが、いまは断薬。発達障害なのに、精神障害の薬飲みつづける意味は? 埒が開かない。

 


まとめ

 


自閉症は、

 

 

 

コミュニケーションの障害
パターン化した興味や活動への固執

 

高機能自閉症のある人は、以下の疾患をあわせ持っていることがあります。スペクトラム

 


ADHD(注意欠陥・多動性障害)や学習障害(LD)などの発達障害
発達性協調運動障害(DCD)
トゥレット症候群(TS)
てんかん

 

これらにアプローチしても、根本的には発達障害がある。

 

 

 

高機能自閉症の二次障害 大事なところ

 


二次障害とは、その疾患の本来の症状ではありませんが、不適切な環境や周囲の理解不足などにより発生してしまう二次的な障害のことです。高機能自閉症の人が生きづらさを抱えながら過ごしてきた結果、以下のような二次障害が発生してしまうことがあります。

 


精神疾患(不安障害や適応障害うつ病といった気分障害など)
睡眠障害
いじめる、いじめられる
不登校
就労の継続が困難
適応障害
パニック障害
不安障害
アトピー、喘息
過敏性腸炎
起立性調整障害

 

これは、自閉症からくる精神疾患 心身障害 二次障害の場合がある

 


根本的に発達障害のコアがある。(大事)

 

 

 

どうするか? 

 


発達障害系の、仕事探し

安心して働ける環境

理解ある場所

発達障害は治らないが対策はできる

(治る場合もあるらしいが…)

 


◯解決策 具体策

 


病識を持つ(心理的負担が減る)

支援をきちんと受ける(発達障害者がずば抜けた能力がない限り1人でなんとか出来るはずはない)

 


しかし、高機能自閉症はグレーゾーンなために、分かりづらい「生きづらさ」の問題に収斂しやすい。

 


周りから苦しんでるのに、重大な問題に見られない。→カサンドラ症候群

 


 きちんと自分は発達障害と自覚するだけでクリアリングできる 対策が打てる。

 


理解ある職場や自分の適職を見つける

(一番大事)

治そうとしてもまず不可能だと知る

周りや自分に言っても治らない

カサンドラ症候群になるだけ

わけのわからないカウセリングや栄養素を買わされてお金無駄

 

 

 

 


定型者は、基本的には、発達障害者と離れる必要、カサンドラは、夫、妻を愛してる場合があるが、子どもいる場合、子供が悲惨 アダルトチルドレン精神疾患のリスク 第三者のアドバイスや専門家は必須

 


生き地獄だが、最低限社会性がある個人的にできる高機能自閉症スペクトラムが出来ること

 


相応しい対人関係や職場

正しい発達障害知識

きちんと活路はある

障害と言っても、凹凸があるだけで、きちんと長所もある

治そうとしてもムダ

治る場合もあるが

基本的に生きやすい環境整備

色々な療法はあるが、高機能自閉症知的障害者と違って「生きづらさ」から問題が起きる 支援が受けづらいし自覚がない

個人的にHSPより発達障害の方が分かりやすい 

 


◯やってはいけない

 


発達障害の自覚者が、同じ発達障害に理解してもらおうとしない

定型発達も同じ

泥沼化する

ex 強迫神経質と強迫神経質 統合失調症統合失調症 発達障害発達障害者が同じ部屋にいてはいけない 発達障害が同じ発達障害を理解できる、と言うことはない 同じ空間になるべくいない方がよい(個人談)ストレスから二次的精神障害になる

 

 

 

薬物濫用

 


騙されてよく分からない栄養剤とかなにか買うこと

 


希望

 


高機能自閉症の人は、水を得た魚のように得意分野で力を発揮する場合がある。いたずらに絶望しない。周りに合わせない。なるべく生きやすい環境を。

人は勝手に治っていく

病とは人間関係の総体だとしたのは、アドラーだったか。しかし、間違いではない。

 

以下は、引用だが、かなり重要な視点である。

 

引用

心理療法の技法で患者さんの症状が改善するのは、ほんの15%だ」というダンカンらの研究発表を見つけてしまったからです。さらに最近では「技法そのものによる効果は、実はたったの1%しかない」という研究結果も発表されています。

では症状の改善にかかわる他の要因は何なのでしょう。それは信頼関係や、患者さんの期待感や納得感、治療者の信念や雰囲気、態度などだというのです。もっと驚くべきことに、治療外要因、つまり治療とは直接関係のない、患者さん自身が持っている力や資源(リソース)、ライフスタイルなどが治療効果の実に40~86%を占めているというのです。引用おわり。

 

ようは、治るのは、セラピーや薬ではない。

 

周りの人との関係性、なにより、自分との関係性を再構築し、勝手に治る一助があくまで知識や薬やカウンセリングなのだ。

 

中井久夫も、病気のこと関係がない雑談で治るみたいな与太話しを言っていた、村上春樹河合隼雄の対談でも、別に苦悩を必ず語らなくては治らないワケではないことを指摘している。

 

要は、常に、人は、自己治癒していく過程にある。病気とは、治ろうとする種である。しかし、創造的な人生や自己実現がなされないときに、さまざまな病に人は、行き詰まる。逆に生かされるとき、人生の負の側面やコンプレックスが、自己のさらなる発展のエネルギーだと理解できるだろう。

 

 

過敏性腸炎、父性など

過敏性腸炎や、過呼吸やら、原因不明の体調不良やら、喘息、アトピー性皮膚炎やら、一概には言い切れないが、心理学的な側面から、したら、仮に「父性」の問題があると思う。逆に、健全な、母子の一体感覚がないために、そわそわ落ち着きがない発達障害傾向や、自律神経失調症が悪化するのだ。

 

あくまで「見立て」だから、確定はできない。

不良行為やら、いじめられたり、弱い体調を崩してしまいがちなのは、父性に飢えているのだということ。潜在的には、そういうことで、悪目立ちして、気を引くのだ。

 

一般的には、恐怖症は、「父」を求める心のはたらきだという。

 

なるほど、一理ある。象徴的な、母や父の次元でも、それを求めている。すなわち、規範、道理だ。父性を表すものだ。

 

よく、暴れている人が、警察官がきて、安心したり、罪を犯して、なぜかスッキリするのは、象徴的次元の父の機能を、反社会的な荒療治で回復するから、とも考察できる。

 

河合隼雄は、次のようにいう。

「現代の若者の無意識内には、天なる父を求める動きが生じているように思われる。略。子どもたちは意識的には、自分たちの求めているものを明確には知っていない。しかし、彼らは「父」を呼び起こすために荒れ狂うのである。」

 

なるほど、現代では、おとなしく品行方正、真面目な人たちが、メンヘラや荒れたりするのは、まさに、その次元を見れば、合点がいく。

 

つまりは、よく言われる、過保護な母と、無関心な父である。

 

いわゆる、弱い父、存在感がない父、母子の歪んだ関係が、問題の根源にあるのだ。

 

解決策?

 

少なくとも、父の機能を回復することなのだが、果たして、それを日本社会や、父や、第三者たちが、問題意識を持てるかにかかっているだろう。いたずらに、ずるずるべたべた、「お母さんと一緒」の、歪んだ家族関係は、再考すべき、社会問題になっている。こんなに、地縁が廃れ、グローバル資本に切り捨てられつつあり、孤立した市民が、発達障害的傾向を持ちながら、見識や感覚が鈍い親や会社などに雁字搦めになり、孤独に喘ぐ未来しかない。全体主義に誘われるのは、そのような孤立であり、全体との一体化、すなわちマザコンである。こうことになると、いつまで、父の切断的な機能が働かない、「未発達」な人が急増している。

社会性やコミュニケーションが取れないのは当たり前だ。「父」という機能で、社交性や規範やコミュニケーションを学ぶことが出来なかったのだ。

いまは、どこもパソコンやら英語、偏差値、プログラミングだ。家に帰れば、ゲーム。

こんなんで、人が成長できるはずはないし、金があるかないか、以前から、恋人やおろか友人の作り方さえ、困っている自分や他人との関わり方など養われるはずはない。

 

問題意識があまりになさ過ぎると感じる。

 

寂しい人やコミュニケーション不全な人が、わざわざ人を苛立てせるような行為をするのは、すべてが、人から気を引くためでしかない。無意識にやって、人を、怒らせて、それが疑似的な父なのだ。人を、怒らせるのも、寂しさから、叱ってくれる「父」を召喚してると考えたらなかなか腑に落ちる。

 

いずれにしても、父性、母性のバランスは、精神衛生にかなり大事な見立てなのだ。

 

 

なんだかなー

少し気になる人が何人かいて、「説教」したくなってが、やめた。だから、殴り書きで、自分なりにアウトプットしておく。内容は、仏教とか病気関連。以下は内容。

 

 

 

病気を手放す

思考を手放す

勉強を手放す

無常さえで手放す

解決も手放す

すべて明け渡す

そのとき「神」は現れる

そのとき、神は自分ではない

「外」にある だが、たしかに神は自分を外から動かしていることをしる

体を鍛えようとか

勉強をしようとか

病気を治そうとか

なにかをしようとすれば

自己否定は強まる

知識欲や

顕示欲は

病気の一形態

怒りの潜在意識

 


自分の中の「悪」を内観する

つまり

社会

周りの人への怒り嫉妬

社会に居場所がない

仲間がいない

劣等感

弱さ

逃げ

卑怯

卑屈

怠け

焦り

無力

他人任せ

詭弁

優越感…etc

 


この悪や弱さや欲を観るだけで、勉強よりよっぽど役に立つ 自分がいかに愚かな悪をばら撒いているか 一応、108個あるらしいが勝手に調べてくれ

 


欲を

「すなお」に認める

 


自分は頭が良くてまともな人間という虚栄心は捨てる 頭よく振る舞おうとしたり、「自分の目」人の目が知識あれば、人は、動きづらい 思考と自分の目を閉じて、内観する 内観とは、真理に目を開くこと。真理とは、無常、それだけ。あと、苦。あと、人は基本的に不浄だ。動けないのは、見えない欲や思考荷物妄想だらけだから。動くには「身軽」が最適だ。勉強してもこだわらない。現実に一致させようとしない。知行合一の知とは、知識ではなく、真理の知恵だ。知恵は流れている。宇宙の流れの合一であり、知識への自己同一などない。

 


それに対して、人は、基本的には、なにもできない。カルマの芽も開いたら、基本的に訂正はできない。行いの結果は消せないが、現在から別のカルマの種は撒ける余地はある。

 


そもそも、自分はむしろ、大層な人ではない

卑小で知識欲ばかりの人

なにもできない

たんに思考、欲の奴隷と認める

知識があっても「足りない足りない足りない」ばかり。毎日読書するのは、基本的に熱心ではなく、異常だ。知識欲も実は良くない。しかし、きちんと「観る」ことだ。観るとは、思考を挟まないことだ。考えて考えて考えて考えて知識を深めて知識を深めても、結局身体は不調になる。なぜなら、身体はお構いなしだからだ。勉強しようがしまいが。頭がよかろうが悪かろうが自律神経や身体は勝手に動く。

 


思考から離れる訓練はできる。なぜなら、思考を、意識化するのが人には可能だからだ。

 


ひたすら思考を離れる捨てる

手放す

必要最低限でよい。考えるだけ重くなる。もっと「軽く」なる。軽くなると、いつか、「流れ」になる。風や川や空気、大気、宇宙は、流れだ。無重力だ。人間だけが「重い」。勉強ばかり、欲張り、思考ばかりでは、「重い」。

 


知識ばかりでは「思い」は「重い」

思考や知識は、頭が重い 痛い 頭に気が集まる 

動けない。流れに思考は邪魔だ。あるがままとは、ボーっとすることではない。真理な「目醒める」ことだ。

 


見えない重量や徳や世界があると知る

見えない世界には、不徳が積み重なる

いくら良かれと勉強しても

周りや過去や現在に恨みがあれば

勉強すれば、自分の悪徳は積み重なる それが行為になる。それは、必ず「重く」なる。知識と世界は、不一致だ。合一はない。知恵とは真理だ。心理とは流れであり、止まらない流れだ。そこには常はない。

 


極論いえば、悟れば90%以上の病気は治る これは間違いない 自分の中の思考は綺麗さっぱり捨てる 自分も周りも、最初からいない。たんに流れ、生滅するものでしかない。本当は、精神病も、血縁関係などないし、国境もない。過去も未来もない。今だけが変わりつつある。永遠に統合失調症の人などいないし、永遠に癌の人などいたことはない。それが「現実化」する種を持っているのは、生命のカルマだ。

 


内観とは観ることだけだ。観るとは、過去や未来を脚色したり知識や知恵で誤魔化してはいけない。いちいち宇宙を川を体を思考を分析する必要がない。たんに「目を見開け」ばよい。それが眼差しだ。愛だ。愛のエネルギーには、病や魔が刺さない。魔が刺すとは、愛が足りないからだ。愛とは、波動だ。性愛とか恋愛は所有欲だ。愛とは、波動だ。分け隔てや選別がない。

 


怠けを「知識欲」で誤魔化してはいけない。そこには魔がさす。だから、すっきりしない。人間が心地よいのは、クリアでスッキリしているときだ。内面の鏡はすぐに汚れてしまう。内面の鏡に学問知識が書きなぐられていたら真っ黒だ。ことばばかりで、なにも見えない。

 


安易な自己主張や自己紹介はしない。自分語りはしない。しても、すぐに忘れ去る。そんなものは、すぐに変わる。

 


励んでも励んでも人生は、無常、苦だけだ それを認めることだけが、「真理」だ。真理に目覚めないなら、いつまで苦は付き纏う。自分は、悪に目覚めて、自分がいかに不浄かを知るのが、先決だ。勉強ばかりして、自分の愚かさに気づかない勉強や、真理に目覚めないならそれは勉強ではなく暇つぶしだ。

 

 

 

頭に詰め込みすぎたり

考えすぎると

頭が不調を起こす

 


勉強をやめる 読書はやめる。世界文学を読破しても精神分析を知っても、なにも見えない。むしろ「鏡」は真っ黒になる。簡単に消せないほどに、びっしり鏡に文字が書いてある。そんな鏡で正常に自分の顔は見えない。真っ黒な鏡から見た世界は真っ黒だ。

 


真理に委ねることを知らない人は、世界を暗黒に染める。自分の鏡の闇を現実世界に反映する。どんなに外界に目覚めても、内界に無頓着なら、エリートでも世界は破綻する。

 


そこに「神」を直観した生があることをしらないかぎりは、病気さえ治る余地はない。

 


思考や分析や知識に、世界との直観を邪魔をする人は、欲の世界で、さらに苦しむはめになる。勉強はやめる。思考はやめる。それまでのライフスタイルにこだわらない。まったく、とらわれないときに、生がシンプルになる。どんなに書物を読んで書いても、欲の沼は深まる。読むべき本より、観るべき内を見ないかぎりは、邪魔なだけだ。

 

Q.発達障害はカルマですか?→答え...

 

 

A.発達障害に関しては、実は、前世より、遺伝的素質です。

 


スピリチュアルを持ち出すなら、ある意味では、かなり現実的で卑近な「カルマ」です。時系列的にも、かなり近い時間的なもので、わざわざ「前世」を持ち出す必要がないと考えています。

 

要は、遺伝的なカルマなので、わざわざ「前世」を持ち出す必要はない、親子関係や社会との関係性に属する問題、現代病みたいなものです。

 

わかりやすく言うなら、親、「社会」と言う親、「思い込み」と言う親、「上司」と言う親、「先生」と言う親に、我々は、ありとあらゆる「親」に挟まれていきています。

 

冷静な人は、ここに意識的かつ理性的な「距離感」を持てます。だから、対人関係に、へんに飲み込まれたり左右されづらいです。これは、人間的な成長により、培われるはずですが、現代人は、まるで、学習していない。思考過剰や妄想という「親」を身体化して、不自然な状態です。そこに「適切な距離感」が、自分や他人にありません。常に「不自然」で「不安定」な対人関係になります。

 


そもそも、大切なのは、意識と身体の健全状態ですが、発達障害者などは、親子間で、わからないのです。「親が悪い」というより、さらに親の親からさらに親も、無意識になっているクセや偏りです。それがカルマ的に子に受け継いでいる。前世と考えるには、おかしいです。脳の障害にしても、「前世」なのかは、慎重に考える必要があります。

 


さて、調和とは、「無条件」です。すなわち我々が、通常、愛というものです。

 

発達障害的なコミュニケーションは、それとは正反対の過剰意識です。競争理念や資本主義で生き残るための、思考過剰な生存システムに適応せずにはいられない反社がもはや息を吸うように刷り込まれているので、赤子も無意識にそれを察してしまいます。

 

だから親がいくら「やりたいことを素直にやりなさい」と言ったところで、子どもたちは、無意識に、そんなんで生きていけるわけはないと、「言語外」から身体化していきます。親や社会や、幼稚園などで、もしいじめをきっかけとして、不安定な母子関係に晒されている子が、さらに、「対人関係に過剰な攻撃性」を無意識に培うはめになります。それを、無意識が抑えきれなくなると、身体的なはおかしな言動に繋がります。必ずしも、怒りや憎しみや攻撃性とは、限りませんが、理性で抑えきれないなんらかの、反射が癖付きます。だから、必ずしも先天的な病気よりも、学習の失敗や機会の損失、立ち直りがないまま、ひたすら「失敗の学習」を身体的かつ無意識にこびりつき、さらにその、凹凸の、凹である欠点(大抵の場合はコミュニケーション能力のひくさ)をカバーするために、能力主義や偏った力に陥る。発達障害だから、能力的に、全部ダメになるわけではない。

 

 

 

その、偏った、意識状態は無意識も含めて遺伝的に蔓延しています。みな、思考過剰なので、身体的な対人関係をもてない。だから、焦る、苛立つ。さらに、思考過剰になり、なんとかしようとするが、そもそも対人関係の安心、安定をしらないから、コミュニケーションもますます、嘘やスキルに偏り、ますます不自然、不調和になります。どんなに無理矢理、呼吸や自立訓練や薬を飲んでも治らないのは、そもそも、そんな関係性を、現代人は損失しているわけです。それはみな「おかしくなる」わけです。

 

とくに子どもの場合は、基本的にどの国も母体との関係性や結びつきが強いので、母親でさえ、その親からなんらかの「過剰意識」や不安、恐怖や、思い込み、教育理念や思い込み、先入観の「思考過剰」状態です。

 

健全な母子一体化もないままに、メディアや外界に晒されてしまいます。

 


そこから、いきなり、社会や対人関係に巻き込まれるため、健全な意識状態を知らないか、基盤がないままに、離乳し、やがて子どもになり、そのまま明確なコミュニケーションを学ぶことがないまま、テレビやゲームやスマホや、資本主義の価値観や、親、社会の思い込みや、なにより、本人たちの意識状態が、常に「思考過剰」に陥ります。

 

そうしたら、ショートしたりバグるような、おかしな意識状態が、無意識に入り込みさらに、無意識は必ず身体や脳と結びつき、妙な言動や、コミュニケーションの問題に齟齬をきたします。

 

さらに、現代人は、明確に人間としてのコミュニケーション能力を開発する前に、英語の詰め込み勉強やメディアにどっぷり浸かり込み、脳や身体が十分に発達しないままバーチャルにのめり込みます。

 

私は、かなり驚いたのは、日本の子どもたちがゲームをすると、かなり高い確率で、死ね、バカ、殺す、などの汚言症チックを多発してしまうことでした。つまり、チャットで「コミュニケーション」ができない。これは、病気とかカルマというより、そういう子たちが、コミュニケーションを獲得しないまま、能力主義や学歴や親や社会の「思考」に完全に同一化して、無意識が暴力に支配されているのです。

 

この無限の攻撃性の由来は、100%、母子関係に問題を抱えています。安心な母子一体化をしないので、その「憎しみ」があるのです。それが、無意識に身体化して汚言症につながります。治る場合もありますが、なにかのきっかけで、コミュニケーションに躓くと、いわゆる「大人の発達障害」になります。

 

大人の発達障害の被害者たちは、思考過剰の、不安定な母子関係や社会により、能力主義に陥っているからです。だから、エリートなのに、発達障害は充分にありえます。発達障害だから無能なのではなく、むしろ発達障害のまま勉強ばかりしたりしてきた。趣味はゲームくらい。そんな人が現れてくる。

 


なので、スピリチュアル的に説明するより、現代人の広範囲な潜在的なカルマ(テーマ)なのです。

 


不安定な社会や資本主義やテクノロジー過剰や、思考で雁字搦めにする意識過剰状態と無意識で結びついた、刷り込みにより、身体化します。

 


これを、「治す」というより、訓練はできます。

 


すなわち、意識状態をストップして、物事に向き合ったり、人と対人や、一体化や調和を身体化することです。

 


現代人は、無意識=身体が、意識過剰、身体過剰に陥って、身体と調和的なリズムが失われています。

 


当たり前ですが、自然界や宇宙には、「発達障害」などはありません。

 


本来ありえない、過剰な意識状態や、身体=身体の、宇宙や自然を通したコミュニケーションや人間関係を知らなければ、おかしな育ち方をするのは、当たり前です。

 


現代人の養育はてんで出鱈目です。意識と思考過剰や、小さい頃から資本主義で「勝ち組」になるための養育を、「頭で考えて」ばかりです。そんな親が、さらに子からさらに子に、受け継がれてきた。かなり、カルマの質が、現実的レベルで「近い」カルマです。前世とかではないです。

 


戦前、戦中、戦後、そして現代人は、あまりに忙しすぎました。調和や豊かさを身体的に、感じられないので、過剰な思考や妄想に同一化しています。

 


本来、意識は「流れる」ものです。

 


発達障害が治るか? 私は医者ではないので、責任は持てません。

 


しかし、思考や意識を、一旦ストップする訓練や意識によって、理性や正しい心理学や仏教により、「意識」に対する「気づきの意識」、いわゆるアウェアネスな、意識過剰意識に対する「距離」を学ぶことができます。これは、瞑想、ヴィパッサナーなどの訓練で可能です。

 


意識の異常や過剰に同一化していれば、そのカルマは、勝手な身体化をします。それを防ぐために、本人が、変な意識状態や、思い込み、親、学校、社会の刷り込みから、一時的に、気づきの「あいだ」を生み出すことはできます。負のカルマに、横槍や防壁をつくり、新しいバイパス、より健全な思考の「種」を撒く訓練はできます。つまり「負のカルマパターン」から抜け出せるかはわかりませんが、「違うパターン」「良いカルマの種」を撒く訓練はできます。

 


しかし、それが、すぐに治るかの医学的な可能性はわかりません。私は、無意識になっている身体化した発達障害者が、悪い意味で自分に気づき続ける過度な思考過剰意識状態があると思います。

 


たしかに、私たちも、自意識過剰では、「おかしな」感じになりますが、あれが、発達障害者は、無意識=身体=親子関係の基盤にあるため、なんら普通の状態さえ、「おかしな」感じで、とくにコミュニケーションの問題を抱えていると思います。これを、訓練できますが、治るかはわかりません。

 

いずれにせよ、カルマだから仕方ないとか思い込むより、いくらでもやりようはある、ということです。

 

発達障害は、置いて置くとして、とにかく言葉に頼らない、無意識的な、身体的調和を、対人関係や世界から学ぶことができ、「再学習」できれば、「負のカルマ」は、違うカルマを紡いでいけるはずです。

 

付記 後記

 

ちなみに私は「身体化」と言ったが、ある意味では、身体さえも、自我さえも、ほんとは「在る」わけではない。

 

仏教では、身体や自我を否定的に捉えているが、私は、必ずしもそうは思わない。自我や身体を「悪」と決めつけるようなエゴが「悪」を生み出す萌芽であるに過ぎないということだ。だからといって、自我や身体に「とらわれる」というのが問題であって、それが、三次元的に、ありうる、というのは、必ずしも「悪」ではない。あくまで身体や自我は、フィルターなのだと自分は思う。だから、善とか悪とかそういう問題ではないし、身体や自我など要らないとか勘違いしてはならない。スピリチュアルに偏った人は、無意識に、身体に対して、精神を上に置きたがるが、その精神さえ、定かではない。たんに、一瞬、一瞬が、現れては消える、「束の間の夢」の連続に過ぎない。その根本は、そもそも、なににもとらわれず、ないのだ。それを「観る」。観てそれ以上はしない。そこに意味や解釈をしない。身体や自我を否定的に「考え」たりはしないのだ。

路上

路上

街を歩いたパンの香り
いるはずのない大道芸人
家族の笑い声
いまは俯いて空疎で灰色な
夕方に酔うことも知らない

ありきたりなコード進行
いつもきまりの言葉に定時
同じ顔して人疑って
歩き果ててどこかに帰宅

帰りたいのだけど
横道それた猫街
なのに動物風景も
なにも慰めなくて
中身のない輪っかにゴミや怒りが
占有するよ
愛なんて知らないのに
女の子の甘い声聞いて
痛い酔いが路上に降りてくる

背中丸めた孤独の戦争
ナイフだけを握りしめて
いまさらなにが愛なんだろう
血眼で家族を見入って
過去に置き去りにした友人知人

いつか自分の歌だって
みんなを光に誘うかもしれない
悪魔にだって天使にだって
なれないのに
不慣れな共同言語探してる

愛も絶望も希望も唄えば
馴れ合えるよ
でもそうじゃない
孤独で触れて引き裂かれて
求めあって
分かりやすい解釈して
簡単に街にとじこめないで
憎しみも怒りもそのままで

心の中の文学友達
頭の中の哲学夕立
歩き果てて疲れたよ
雨に濡れた瞳の嘘

少しあるきゃならずものの
底の浅い幸せ自慢
死ぬまで後悔
死ぬまでしゃぶり
気づかぬふりた亡者の果て
お布施し取るに足らぬことを祀って底ついてる
神輿担いで全員潰れて
優越感の自虐不幸
ナイフを研いで勝ちほこりゃ
どっちが正義かわからない

被害者気取りのキラキラーバカ
被害者気取りのkiller x2 fucker
ゴング鳴らしゃどちらもどっち?
先も後もどっちもどっち?

 

 

ポジティブ

どんなに冷たいトイレの先でも
傷ついた娘のためには
前向き
火傷した腕については
きかないで
どんなときも明るく前向き

疑問だった
みんな幸せなふりして
明るくて
ヘタレな大根役者が
偉そうにしていた

世界はあまりにも強く明るいから
膝を抱えて黒のクレヨンを握った


光ある開き直った無神経さが
腐臭を世界に広めていく
向き合う強さもなく
絶望し悩む力のない
戦車のアルカナ

末っ子の劣等感みたいに
虚勢を張った無自覚な光が
闇を蹴散らしていく
向き合う覚悟もない
腐臭をもたらすポジティブラジオ
自我を持った名言
人格を失った人間

どんなときも前向き
子供は泣いてる
意地でもわたしは2段ベッドの上だって
譲らない田舎のババア

わたしは前向きなんだから最強だ
闇を蹴散らせ跪け
悩んだり絶望したり
弱音を吐いたら許さない
生きる発電機
ショートして
息子は失明した

毒なんて誰にでもあるよ
解毒剤のような恋に賭けても
あいつは必ずやってくる

鳴り響く中年のラジオ
向き合う力
失う弱さ
隙を一度でもみせたら
影を見せたら許されない
深夜のラジオ
深夜のロック
すべては負け犬の遠吠えだ

 止まらない身勝手なマシンガントーク 

寝転がっていたら毒は回ってた
太陽を見ていたら眩暈がして
後ろ向きになって寝た
陰性の光が
心を踏み付けにしていく
なりふり構わない
光の戦車

絶望には効用があるから
光で目を背けないで
楽観は身を滅ぼす 
悲劇がさらなる悲劇を回避する
闇があなたを癒すなら
置き去りにされない