心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

あんた

あんた

あんたには興味ないから
上辺だけにとらわれたくないんだ
顔は可愛くて フランスの香水の香りがした
俺は哲学が必要だった
女の身体や匂いに
倫理的な理由が必要だった
俺は高尚なんだから
冗談だと思うだろう

意味深笑顔
占有される脳内
夢にまで現れて一通り現れたら
あんたは忘れたように消え去って
魔女や妖精の気まぐれみたいに
ベッドルームに現れて
やっぱり消えた

さっさときえてくれ
世界中の美女たちが
毎晩銃を持ってやってくる
喜ばせろと
女の復讐の時代だから
散々俺たちはレイプしてきたんだ
いまさら言い訳も必要ないから足くらいは舐めたんだ

夏に咲く薔薇のように
冬に枯れるひまわりのように
気まぐれな死神感情の生理
八つ当たりして
浮気して
頭の中はあんただけだ

失恋したんじゃない
失望したんだ
自分に
長い黒髪が好きだから
そこに真理があるから
不快にさせないでくれ
ザコンの夢を見させてくれ

俺のたたかいがわかるか?
孤独の戦争がわかるか?
だれもが戦ってるんだ
カオスでシームレスな戦争で
交尾して感染して
不浄を成して

自我が煩悩なら救われるか
悪夢の中で
分かりきった真理に跪いて
振り返らない
覚悟はあるんだ
悪魔みたいなアンタの植民地時代
俺の言語は奪われた
あんたのための愛憎で
寝ても覚めても飽きない
和平が必要だ

疲れたんだ
太陽の前で二本足で立って
夜は四つんばいになるのが

 

 

 

生きづらさの問題

基本的には、エゴと無知や潜在意識の怒りや虚しさ憎しみがあるのが普通の人だろう。しかし、それに気づかない。無知がある。

 

 最近思うのは、発達障害とかそこまでは、関係ないのではないか、と感じた。たしかに実際、障害は生きづらいが、それだけが問題だろうか。

 

そもそも、話は逸れるが、それ以前に、人は、性格が悪く、主体性や社会性がないと、そんな人なら、どんな世界でも「生きづらい」のではないか。

 

俺は、とある発達障害の人のインタビューを読んで、障害というより、そもそも無知があまりに酷いな、という印象だった。

 

病気とか障害というより、インプレッションとしてはまず、「この人性格悪いな」という感想である。

 

その場合は、そもそもの生きづらい問題が、障害や病気は関係ない時がある。 性格が悪いという悪業(仏教的視点)があれば、なんであれどんな世界でも生きづらい。裏を返せば、いかなる障害があろうが、溌剌と生きていたり、配偶者に恵まれていたり愛されている人もいるのだ。決定的な違いは、運もあるが、そもそもの「性格」ではないか。

 


要は無知。発達障害のせいにしていないか。障害は別に置いて、そもそも性格が悪いという問題。感覚過敏なのは、なぜか。

漠然と生きづらさを周りや社会のせいにしているのに気づかない。

 

まだ他人事で、正論に寄りかかり、(自分が生きづらいから)日本をよくする!なんて感じるのは、自分の責任を感じるつもりが毛頭ないからだ。

 

発達障害ではないく、「性格の悪さ」無知から来ているのではないか。 

 


性格悪いというただそれだけが、無知を認められない。つまり、真理に疎い。

だから人生うまくいかない。性格が悪いから、金あり有名でも生きづらくイライラするのは、当たり前ではないか、、、発達障害とか関係ない。

 


たとえば、生きづらいのは色々な理由がある。家庭問題、社会的な問題や身近な生活環境、公害、外的要因、対人関係や事故や病、戦争、金銭的問題などがある。

 

しかし、それは表層レベルである。

主要原因は、基本的に「心因性」である。心理主義批判(なんでも心理に原因があるという批判)もあるが、

 

自律神経失調症不定愁訴など、目に見えない次元の世界は、ほとんどが深層心理のレベルにかかわる。

 

しかし、我々は、エゴイズムの世界でなんとか、「やりくり」「採算」「その場しのぎ」で、カツカツの状態でほとんど死んでいくしかない。とは言え、操作しようともがけばますますうまくいかない

 

驚くべき無知蒙昧だが、自分の性格が悪く、悪業に気づかないから、「ツケ」をいま払わされているのではないか。だから、人は、「自分ばかりどうして」なんて思うが、悪業は基本的に気づかない。無知だからだ。

 


「そもそも性格が悪い」という問題は気づき辛い。あと「妄想癖」。勝手に世の中や自分や他人を決めつける「妄想」が酷い人。これは、薬飲んでも治らない。

 

無知だからだ。性格の悪いことは本人はまず気づかない。

 


しかもこれは、薬も飲んでも治らない不治の病である。

 

だから、人生がうまくいかないとか、世の中や病気がと言っても、結局、性格が悪いと、孤立しやすいし、被害者意識も生まれる。

 

性格が悪ければ、社会に居場所はない。

 

人並みの暖かさが分からない。発達障害だからではない。

たんに潜在的に人が憎い。

性格が悪い原因を自分ではなく、周り人の無知に置き換えてしまうが、そういう本人たちがそもそも無知でエゴイストなのだ。

知恵をつけて、なんとか周りより偉くなった気になったり、正義感で世の中を批判するが、行いは伴わない。妄想の病である。

 

自分たちは、善意でなにかをするが、自己満足や自分への言い訳や慰めの域を出ないので、世の中は当然良くならない。

 


この性格が悪い、無知や妄想癖を治さないと金持ちになろうが病気を治しても、生きづらいのは変わらない。資本主義だろうが共産主義だろうが、原始時代だろうが、昭和をうらやんでも、性格が良ければそれなりにやれるかもしれないし、悪けりゃ、やはり、それなりだ。

 


悪さをしなければ、生きやすくなる、苦を軽減はできる。


生きづらいという理由だけで、ネットで生きてくとか、流行りで声優になる、YouTubeでやるなど、一山当てる思考になる。

 

 勝ち馬にのる思考にハマる。自分は悪くないのに!正論言ってるのに!などと屁理屈はいうが、それ自体が、他人よりも、自分で自分を貶めることには気づかない。その行為が自分の悪業をより深めることになるから、他人よりまず自分が傷つくことになる。

 


自分で自分の人生を台無しにしているのに気づけないのは悲しい。

 

 

 

他方、性格を良くするのも悪事だ。

性格を良くするのではなく、自分の無知な言動を抑止して、感覚過敏を抑止して、無意識のうちの「条件反射」「いつもの同じ悪いパターン」に気づくのがよい。

 

 悪業に気づく。それが良いこと。無知に気づく。

善業が実れば勝手に潜在意識レベルの良い種は花咲いていくので、あとから三次元的な現実や物質次元や対人関係は、必然的に良くなる。良くなるというより 気にしたりムキになって反応しなくなる。妄想癖や悪さを限りなく減らせるようになり、気付きが増えると、豊かになっていくと思う。それも真理だからだ。かりに今世、報われなくても、その善のカルマは必ず流転して花開く。(仏教的にはそのはず)

 

人の正常とは、善でも悪でもなく、中道でクリアな視点を持てることだ。

 

まあ、今回は、仏教みたいな話だった。現実的な視点ばかりでは、ヒトは煮詰まるからな。

しばらくは方向性を変えようか

実はいまや「古典的な神経症」というような、ありふれたわかりやすい神経症や対人恐怖みたいなのは、減りつつある。統合失調などの、「典型的」な人も減りつつある。それこそフロイト森田正馬などが生きていたような時代とは、人間の社会生活環境もまったく変わっているし、絵に描いたような「ヒステリー」も、あまりない。

 

それは、精神医学の進歩や問題意識や、昔にくらべたら精神科医などにかかりやすくなったり、メンタルヘルスが、身近になったのもあるし、薬の力もある。もちろん、それは、良い側面だ。

 

とは言え、他方、精神医学世界にも、トレンドがあって、いまは、「グレーゾーンの人」が、かなりの割合をしてめている。

 

そのグレーゾーンとは、いわゆる「繊細」とか「HSP」とか言われているであり、なにより発達障害と呼ばれる人だ。グレーゾーンとは、メンヘラではないが、メンヘラ「的な傾向」の人である。

 

いまや、精神医学界は、発達障害全盛期である。グレーゾーンの「患者」がたくさんいて、パッと見、「精神障害者」に見える人は、だいぶ少ない。

 

雑な分類が許されるなら、ほとんどの問題が、発達障害の凹凸からきている。

 

発達障害に気づかずに、ストレスや人付き合いの困難さにかかわるもの、いわば「生きづらさ」である。本人たちは、気づていない。

 

これが、上辺だけ誤診され、うつだとか間違った診断に繋がる場合があったり、繊細だとかメンタルが弱いとか勝手に決め付けているが、実は、根本的には、発達障害的な問題をかかえている人があまりにたくさんいる。

 

発達障害も、神経症と言っても一概にはこうだと言えず、発達障害的な傾向を「治す」と言ってもキリがない。グレーゾーン的なもので、本人を「治す」のか、社会生活環境を整備するのか、いろいろな考えはある。

 

ブログでしばらくは神経症については、一回箸休めをし、これからは、神経症だけでなく、発達障害について知識を深めながら、考えていきたい。知識を深めるだけで、生きづらさの正体が分かり、スッキリする部分もあるだろう。

 

 

 

 

言葉尻に反応 些細な言動に反応

言葉尻や些細な言動にやたらと反応し、噛みついたり、気にしたりするときは、大抵は、欲求不満で、表明でしか見てない。

 

というより、自分が見た現実に、「意味」や「欲求」を生み出しているのは、自分で、三次元的な現実には、そもそも、確信的、絶対的な「意味」はない。

 

常に、現実は絶えず変化して流れているし、消え去るものでしかない。

 

しかし、いちいち、自分、他人のことを逐一確認していたら、人も他人も動けなくなる。

 

そういう雁字搦めの、エゴの牢獄を、それこそ無意味に作り出すのも自分だ。

 

流すことができないのは、不衛生だし、人のなりゆきや流れが分からないせいだ。

 

人の言動を気にしないのではなくて、人の言動など、現れては消え去るという事実を理解すべきだと思う。

 

いちいち、言葉尻に反応して、自分の稚拙な欲求を叶えたい自分がいるだけだ。

 

人の欲求が許せないと言い募り、他方では、立派に自分も他人の欲求を認められていない自分もいることにまるで気づかない。

 

見せかけの現実に一喜一憂しているのは、自分で、上辺だけの現実に突っかかるのも「自分」だ。

 

そんな「自分」もやがていなくなる。

そんなことで年から年中「反応」している。

 

それくらい敏感なのではなくて、ひたすら自分の欲求で、「反応」しているだけだ。知覚的、感覚過敏なだけの、お気持ち表明マシンになっていないか。

 

いかに、周りにいちいち反応するだけの「マシン」になっていないか、気づくだけで、簡単に、自分勝手な感覚主体にストップをかけることができる。

 

世の中のニュースや天気も大事だが、「振り回される」のは間違いだと思う。

人の「言動」、自分の体調も、いちいち反応して、確認していたら、うまくいくはずはない。良い意味で「流せる」のが、仏教的には真理に根差した生き方だ。

 

いちいち「食い下がる」のも、他人のためにも自分のためにも微塵もならない。

 

 

ほとんどの人は変態

よく、感情性豊かとか、繊細なんだとか、選ばれたセンスの持ち主とか言うが、仏教的には、煩悩に振り回された悪魔の道を行っているに過ぎない。実は、欲ばかりで「貧弱」。それを認める必要がある。それは、ないものをあるとする、病気的気質や変態なだけ。自分が、弱く、周りに振り回らされがちな、変態だとは、自覚したくないのだ。弱々しいというのは、欲望に振り回されるだけの人、という意味で「繊細」とはなんら関係はない。繊細とはスキルであり力だからだ。

 

たとえば、やな奴がいたとする。たんにそれだけだ。神経質になれば、その人があるだけで、倒れたり、発作が起きたり、気分が悪くなったりする。人は、たんにそれだけで、いちいち気分や体調が左右される。しかし、病院に行っても、ストレスか薬を出されるだけだ。いなヤツなのに、そんなやつに粘着して、年から年中批判したり、殺したりする。

 

これは、相手が悪いのか? 一部の極悪人を除いて、それだけ神経質で不安や恐怖体質なのは、欲求不満や周りや自分への、過度な期待値がある証だ。ないものをいちいち「ある」として、現実的に、そんなことになる人がいる。満たされない欲求を、いちいち会社や学校の人間関係に置き換えて一喜一憂している。所詮、仕事や勉強などは、たんにそれだけなのに、満たされない対人関係をいちいち満たそうとするから、無茶苦茶になる。とるにたらない人までに、承認や安心を得るために、バカな振る舞いや解釈までしたり、過度に期待するあまりに、精神的に病む人までいるが、所詮仕事や勉強など、たんにやるだけ以外には特別なことはないが、それに付随してくる対人関係に過度に振り回らされたあげく、本業まで疎かになる。挙げ句の果てに、「心を閉ざす」ようになる。

 

よく性格が悪い奴が、成績やスポーツができるのは、周りに振り回されにくいからである。しかし、嫉妬する気遣い人間は、周りに振り回されるだけで、なにも成果は期待できない。「性格が良い」「主体性」がないから、嫉妬して、結局、性格が悪い奴より成績不良な陰湿になる。結局、周りが悪いわけでなく、それだけザコというだけの話なのだが、なかなか自認はできない。根拠のない自信まで身につけて、自分より弱い敵をつくりバーチャルに騒いでいる現代人をイメージすれば、いかに「弱い」かわかる。「特別」でもなんでもない、打ちひしがれた自分である。三度の飯より、自己演出や見栄えを気にする割には、実力や人間性が大したことがないのは、結局のところ、対人関係に雁字搦めになって、小手先のことしか目に向かなくなるからだ。

 

よく、くだらない大騒ぎを課題に評価したりするのは、手先の世界しか見えないからだ。手先の世界しか見えないのは、チンパンジー並みの認識力になってしまっているからだ。チンパンジーは、腕を切断されても、視野に入らなければ、しばらくすれば、「ヘラヘラ」しているし、気にしない。人間もそうなる。

 

不安が恐怖が強い人や自己否定が強すぎる人が、自分に危害を加える状況や人を作り出す場合がある。それだけ大した人間ではないのだが、期待だけは人一倍で、身構えているわりには、大したことはない。過緊張により、実力など出せないし、対人関係もクソだからだ。あげくに、身内や家族に八つ当たりや巻き込む性質があり、自分の性格が悪いかは理解できない。

 

分が悪くなれば、変な価値基準で人を判断したり、病気を振り翳して周りが逃げられないような状態をつくりはじめる。

宗教や屁理屈を持ち出す。感謝しなくてはならないことまで、全否定しはじめたらもうつける薬はない。そんな親や社会に依存はしているが、不満だけは、一丁前になる。クズを批判しながら、立派な自分もクズであることは、なかなか理解はできない。しかし、人一倍、そんな情け無い自分を理解して貰えないし、理解して欲しいから、「なにがわかる!」というお決まりのセリフが吐ける。しかし、他人を、理解しようとはしないし、そんな対話能力など、家庭や学校で身につけてくるはずはない。なぜなら、そんな、低質なコミュニティに自分が属しているなど、わからないからだ。

 

世の中には、残念ながら、ハイソサエティな関係性やコミュニティに生きている人がいて、メキメキ力を蓄えているが、なにも身につけてこなかった機会に恵まれなかった「普通の家庭(自分ではそう思っている)」人たちは、なんら学習や既得コミュニティや恩恵から疎外されている。

 

だから、そんな情け無い人たちは、共依存や自立しない狭いクソみたいな家族や親族に閉ざされるしかない。しかも、そんな人間だから狭い人間関係で、一喜一憂して地獄に突入する。

 

そんな人が、自分が、「ありもしないことをある」とするような病気的、変態的気質の持ち主になるのは当たり前だ。大した生まれでもないやつが、自分の先祖は…とか有名人の知り合いだと、語り出す繊細でも特別でもなんでもない、変なヤツという事実、真実があるからだ。さらに、真面目や道徳を振り翳したり、傷つく人もいるみたいに言っても説得力に欠け、人生観も薄ペラく型にハマっているだけで、「弱々しい」。だから、孤立しているから、周りもサポートなどしてくれるはずもなく、相談的な人が、身近にいれば、愛情関係を確認できるが、そんなのがあるはずはない。自分に軸や人生がなく、「弱々しい」から、ありふれた真面目くん意見しか言わないでいるからだ。なぜか、攻撃的な自分を出せないのは、「自信がない」からだ。自分を守れる人は、法律を犯さないレベルで、反撃するが、弱々しい「自信がない」「自分がない」ために、お気持ちや考えをいちいちブログに書いたりする。

 

負け犬の遠吠えと、「自分が悪意にすぐに負ける」という事実のギャップが理解できない。

すると、とたんにキモいことに気づけないし、弱々しく、打ちひしがれて、真面目を演じるかないだけで自尊心を保つようになる。

 

仮に、身近に、必要以上に、不安や恐怖でビクビク疑い深い人や、去勢を張ってシリアスになっている人は、お笑いものの痛い変人だ。それは、「自分に酔ってる」ということだ。

 

自分酔いしている人は、神経質体質で、偏りやこだわりが強い場合がある。それは、自分のエゴに縛られているからだ。だから、へんに固い性格だったりする。

いちいち、波瀾万丈というが、災いをもたらして、すごい人生を送ってきたかのように演出する。よほど戦争や事故がない限り、人は、無自覚の「演者」である。

 

自分がいかに、ないものを勝手にあるとして、妄想と煩悩の世界にいるただの変態だ、と自覚してからは、俺はあまり、自分に酔うのは恥ずかしいことだと自覚している。神経症体質は、いちいち周りに語るものじゃないな、変態自慢なんか、他人が理解できないのは、当たり前だと今は思う。それだけ身勝手な解釈をしていたら悲劇なのは当たり前だからだ。

 

自分が悪質で恵まれない(あるいは、にもかかわらず、周りの人の力で今がある)と悟れた分だけ、ようやくマシになれる、というだけの話だ。

 

 

ちょっとおかしいよ!ほんとに!

そもそも、犯罪者は然るべき法で裁かれるべきであり、市民の慰めものや笑い 話の「ネタ」ではない。焚き付けているのは、日本のメディアやネットユーザーだ。承認欲求なんか関係はない。たんに想像力の問題だ。

 


焚き付けているのは我々だ。

本質的に騒ぐのはなんだ。

経済 貧困 政治の怠慢も問題だ。

スルーして済む話を騒ぐせいで問題になってる。焚き付けたのは我々だ。バレなければ他愛のない「いたずら」を、白日にさらしたのはメディアだ。くだらない犯罪動画やエロや動画を見ているのは誰だ? 我々だ。

焚き付けたのは。

観たのはだれか。

犯罪者は我々だ。

薪を焚べているのは、自分たちだ。

くだらない動画を毎日観ているのは本当は自分たちだ。自分たちの「観る欲求」を棚に上げて、他人の「承認欲求」に責任転嫁するね。

 

騒いでいるのも我々だ。

騒いだから問題になる。

炎上しているのではなく、「炎上させているのが常に我々だ」。問題抱えている人ではなく、問題を焚き付けているのが我々だ。我々は犯罪者だ。

 


くだらないことに騒いで問題に向き合わない素ぶりをいつやめて、政治に向き合うのか。日本人は。

 

 


犯罪は、マスコミやネットユーザーの「おもちゃ」ではない。犯罪者にも人格、人権はある。

必要以上に私的感情で入れ込み踏み必要以上に私的制裁するのも立派な犯罪行為ではないのか。むしろ、そんなことにならないために法はある。

 


犯罪者であれ、無慈悲で無自覚な犯罪気質がひたすら私刑、誹謗中傷、私権濫用(死刑にしろなどの発言)最悪の無法地帯の日本とはこんなものだろうか?「世間」がなくなり、無神論者ばかりで、ニヒルな市民たちが、犯罪者が犯罪者を叩く なにさまだ? 同じ穴の人様(ムジナ)のように見える。政治家が犯罪ばかりしているから感覚がおかしくなっているのか。

 

 

 

たんに、暇つぶしならゲームなり他愛のないYouTubeやクライムサスペンスを観れば良いだけではないか。犯罪者にも人格、人権はある。まるで無自覚なあなたにもきちんとある。

 


日本がこれ以上経済的に社会的にひどくなるほど、犯罪も身近になる。

西欧社会並みに、人権意識は必然的に高まっていく。今のうちから、墓穴を掘らない方が良い。

 


正義w法律ウゼェwプゲラー みたいなやつらも、このクソ日本社会の犯罪に巻き込まれない保証なんかないし、それどころか加害者スレスレだ。匿名ユーザーで、毎日、暴力を振るっているのは恐ろしくならないのか。

 

 

 

「現環境の社会システムは、性善説にもとづいて」「限界が〜」と言う人がいる。

 


なんか、コメントが、ペルソナとかやり始めたステレオタイプなインテリ気取りの中学生みたいなbot発言なんだな しかもアナウンサーだろうに。

 

性善説性悪説って、中国の思想だが、なんか関係あるのか? 性善説とか性悪説って、ガキが、人間の本性は悪だから〜とか浅い話では無いし、不見識すぎる。ガキは世界共通ガキでバカなところがある。今更はじまったものじゃない。

 


人の本質の哲学的議論云々より、監視網がフリーになる現代の機械化の弊害であり、個人の良心によって賄うには限界があるから再度検討すべきときに来ているとか、テクノロジーをさらに発展させるとかならわかるが。

 

本心に準じて弱くいけばよい

人の限界は、ルサンチマンそのものではないか。欲望、煩悩に負けることではないか。

 

最近、思うのは、「本質的な悩み」がないが、「なんか苦しい人」がいることだ。雑なカテゴライズが許されるなら神経症的反応である。 

神経症的とはいちいち「言い訳」を使ってみせることだ。逃げ口や言い訳が増える。それで、ひどいと身体の不調になる。

 


たとえば、それは「知性化」を図る場合がある。神経症や、強迫、反復行為だ。

やましいことがあるほど、知的に観念的に振る舞いたがる。

仏教や哲学を振り翳しても、日本社会を良くしたいとか言っても、ニートや不利な立場を正当化するための武器(or盾)でしかない人がいたりする。

 

社会的な居場所がないばかりに、力こぶ満点の知恵をひたすらツイートしたりして、誤魔化したりする。しかし、その実、行為的なことや意外なほど、他人に貢献したり団体で活動しないで、「孤立」しているのだ。

 


ちょっと頭が利く人間がルサンチマンに気付いても、たとえば、ニートを正当化して、働き詰めの畜群を「見下したり」分析している時点でルサンチマンそのものになっている。頭の悪い人が、「絶対悪」などない、と言っても、それは、誤った相対基準であって、現に思い込みであれ主観的にも、法規的にも、秩序、法、規範はある。たしかに、哲学や思想には、それ自体を「現象」として扱う場合があるが、無視してよいわけではない。ニートや犯罪を同レベルに語るわけにはいかないが、ニーチェなどの思想は、ナチスなどにも利用されがちで、ニートにとっても例外ではない。あとは、仏教や老荘思想などだが、あれらは、無職だけでなく、勤勉家にも充分適応できる。

 

 

 現実乖離の観念的なバーチャルアナーキストになったりして「浮世」から観念的離れてしまう人さえいる。いまは気軽にネットで「自己演出」が出来てしまう。

 


かりにニートや弱さやダメさを正当化したいなら、親鸞をやればいいのに「どうせ自分はダメ」と言う、素朴なそれが言えないばかりに…

 

やっぱり女を抱くのは諦められない! なんて言う、そんな親鸞は偉大だと思う。 

嘘つきニートの「高尚芸術」よりもだ。太宰治坂口安吾も見習うべきだろう。

 


仏教も哲学も堕落したやつの慰みものではないとは個人的に思う。勉強家や働きもののサピエンスのためのものでもある。特別、社畜や畜群だのルサンチマンだとか吹かす前に、まず「弱さ」に向き合って然るべきだ。だから、坂口安吾は、堕落論で、生きよ、堕ちよと述べた。その上で、自分なりに人は、天皇だの戦争だの女だの武士道だのと見出さざるえないくらいに可憐な存在だと言った。

 


畜群とか、ルサンチマンとか言ってるやつが、ミイラ取りがミイラになるを体現してる場合がありやしないか。

 

他人のルサンチマンを指摘して、それを超えていける程度の「超人」などいない。

 

他人のルサンチマンが許せないこと自体がルサンチマンだからだ。「おまえらは無自覚に安い酒のルサンチマンに浸れてずるい」でも自分は酔えない。まったく辛い話だ。

 


更に、文学、宗教、思想たんに厭人や嫌悪や実存的な空虚をかかえた「心のか弱い」文系青年、淑女を慰めるものじゃないだろう。もっとパワフルなもので、怠惰なものでもない。

 

 三島由紀夫も似たようなこと言っていた。田舎者が「自分に自信がない」と言うだけで、文学やら哲学で勝ち誇るなんてまさにルサンチマンではないか。ネットで自分を等身大より上に語る君は、ニーチェじゃない! ニートか働いていようが、基本的に嘘つきだ。

 


三島由紀夫太宰治に言ったように「乾布摩擦」して済むような自意識のことを、やれマルクスフロイトやらニーチェやらって情けない。

ならば、太宰治を読むか、親鸞をやれよと思う。

 「どうせダメ」なんだから認められないくらいに。

親や友人の前で、いやニーチェ曰く…ハイデガーが、とか言っても、おまえは自分の実存をそんなことで守れやしないだろ。命もかけてない連中がスマホ片手にパソコンの前で、なにができる?日本のヒッキーニートが。サボることだけだ。サルトルならサマになるさ。だってそれが彼の「実存的人生」だから。ニートに生態はあっても存在はないんだよ。カフカなんか関係ないよ。人とうまくやれないとか障害とか言って、それこそ、アンタより問題抱えてる人はどう説明つけるんだ。持ち前の「知性」で出来るのかい。

 

人の全存在が、肯定的に振る舞える生物など、観念的に知的にもありえない。

あるとしたら、「宇宙そのもの」だ。しかし、我々は、親や上司の前やら異性の前では、俗人そのものではないか。

 


「開き直ってよ、俺は働きたく無いもんねでも、あわよくば楽して飯食いたいしエッチしたいし、どんなに高尚ぶっても裏ではあーオナニーは止まらねぇ…」と言えないばかりに「いや俺はそんな畜群やリア充よりはまともだ。なぜならマルクスフロイトハイデガーはおろかドゥルーズフーコーアガンベンも熟知しているばかりか、サルトルのジュネ論も読んだからあんなクリスマスに手を繋いでいる連中なんかより幸せそうな家庭なんかより…マシだ、そうだどうせあいつらは性格が悪い、そうに違いない!」とか言っては世話ない。そんな陰気なアンタが性格悪いよ!

 

素朴な悩みがなにがおかしいか、煩悩の卑小さを持つ人だからこそ自分だ。

 


その点、太宰治は偉いし、坂口安吾も見習うべきだよ。現代の「弱い」ニート諸氏は。キリスト教ギリシャ哲学?上座部仏教マルクス主義アナーキズム? か弱い日本ニートには、すべてが手に余る品だ。

 

権力の意志、神経症的自尊心でしかない。

ニートをやりたいなら言い訳すんなって言いたいが、弱さを持つ人間には、言い訳が必要だ。

 

むしろニートは、ルサンチマンを弱さを開き直るか認めるべきではないか。もし、克服して、「超人」になった人がいたら、連絡ください。でも、神経症的な自尊心を盾にするより、まずは自分の性格の悪さと弱さに気づいたほうが懸命そうだ。