心の書庫

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生きづらさの問題

基本的には、エゴと無知や潜在意識の怒りや虚しさ憎しみがあるのが普通の人だろう。しかし、それに気づかない。無知がある。

 

 最近思うのは、発達障害とかそこまでは、関係ないのではないか、と感じた。たしかに実際、障害は生きづらいが、それだけが問題だろうか。

 

そもそも、話は逸れるが、それ以前に、人は、性格が悪く、主体性や社会性がないと、そんな人なら、どんな世界でも「生きづらい」のではないか。

 

俺は、とある発達障害の人のインタビューを読んで、障害というより、そもそも無知があまりに酷いな、という印象だった。

 

病気とか障害というより、インプレッションとしてはまず、「この人性格悪いな」という感想である。

 

その場合は、そもそもの生きづらい問題が、障害や病気は関係ない時がある。 性格が悪いという悪業(仏教的視点)があれば、なんであれどんな世界でも生きづらい。裏を返せば、いかなる障害があろうが、溌剌と生きていたり、配偶者に恵まれていたり愛されている人もいるのだ。決定的な違いは、運もあるが、そもそもの「性格」ではないか。

 


要は無知。発達障害のせいにしていないか。障害は別に置いて、そもそも性格が悪いという問題。感覚過敏なのは、なぜか。

漠然と生きづらさを周りや社会のせいにしているのに気づかない。

 

まだ他人事で、正論に寄りかかり、(自分が生きづらいから)日本をよくする!なんて感じるのは、自分の責任を感じるつもりが毛頭ないからだ。

 

発達障害ではないく、「性格の悪さ」無知から来ているのではないか。 

 


性格悪いというただそれだけが、無知を認められない。つまり、真理に疎い。

だから人生うまくいかない。性格が悪いから、金あり有名でも生きづらくイライラするのは、当たり前ではないか、、、発達障害とか関係ない。

 


たとえば、生きづらいのは色々な理由がある。家庭問題、社会的な問題や身近な生活環境、公害、外的要因、対人関係や事故や病、戦争、金銭的問題などがある。

 

しかし、それは表層レベルである。

主要原因は、基本的に「心因性」である。心理主義批判(なんでも心理に原因があるという批判)もあるが、

 

自律神経失調症不定愁訴など、目に見えない次元の世界は、ほとんどが深層心理のレベルにかかわる。

 

しかし、我々は、エゴイズムの世界でなんとか、「やりくり」「採算」「その場しのぎ」で、カツカツの状態でほとんど死んでいくしかない。とは言え、操作しようともがけばますますうまくいかない

 

驚くべき無知蒙昧だが、自分の性格が悪く、悪業に気づかないから、「ツケ」をいま払わされているのではないか。だから、人は、「自分ばかりどうして」なんて思うが、悪業は基本的に気づかない。無知だからだ。

 


「そもそも性格が悪い」という問題は気づき辛い。あと「妄想癖」。勝手に世の中や自分や他人を決めつける「妄想」が酷い人。これは、薬飲んでも治らない。

 

無知だからだ。性格の悪いことは本人はまず気づかない。

 


しかもこれは、薬も飲んでも治らない不治の病である。

 

だから、人生がうまくいかないとか、世の中や病気がと言っても、結局、性格が悪いと、孤立しやすいし、被害者意識も生まれる。

 

性格が悪ければ、社会に居場所はない。

 

人並みの暖かさが分からない。発達障害だからではない。

たんに潜在的に人が憎い。

性格が悪い原因を自分ではなく、周り人の無知に置き換えてしまうが、そういう本人たちがそもそも無知でエゴイストなのだ。

知恵をつけて、なんとか周りより偉くなった気になったり、正義感で世の中を批判するが、行いは伴わない。妄想の病である。

 

自分たちは、善意でなにかをするが、自己満足や自分への言い訳や慰めの域を出ないので、世の中は当然良くならない。

 


この性格が悪い、無知や妄想癖を治さないと金持ちになろうが病気を治しても、生きづらいのは変わらない。資本主義だろうが共産主義だろうが、原始時代だろうが、昭和をうらやんでも、性格が良ければそれなりにやれるかもしれないし、悪けりゃ、やはり、それなりだ。

 


悪さをしなければ、生きやすくなる、苦を軽減はできる。


生きづらいという理由だけで、ネットで生きてくとか、流行りで声優になる、YouTubeでやるなど、一山当てる思考になる。

 

 勝ち馬にのる思考にハマる。自分は悪くないのに!正論言ってるのに!などと屁理屈はいうが、それ自体が、他人よりも、自分で自分を貶めることには気づかない。その行為が自分の悪業をより深めることになるから、他人よりまず自分が傷つくことになる。

 


自分で自分の人生を台無しにしているのに気づけないのは悲しい。

 

 

 

他方、性格を良くするのも悪事だ。

性格を良くするのではなく、自分の無知な言動を抑止して、感覚過敏を抑止して、無意識のうちの「条件反射」「いつもの同じ悪いパターン」に気づくのがよい。

 

 悪業に気づく。それが良いこと。無知に気づく。

善業が実れば勝手に潜在意識レベルの良い種は花咲いていくので、あとから三次元的な現実や物質次元や対人関係は、必然的に良くなる。良くなるというより 気にしたりムキになって反応しなくなる。妄想癖や悪さを限りなく減らせるようになり、気付きが増えると、豊かになっていくと思う。それも真理だからだ。かりに今世、報われなくても、その善のカルマは必ず流転して花開く。(仏教的にはそのはず)

 

人の正常とは、善でも悪でもなく、中道でクリアな視点を持てることだ。

 

まあ、今回は、仏教みたいな話だった。現実的な視点ばかりでは、ヒトは煮詰まるからな。