心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

ほとんどの人は変態

よく、感情性豊かとか、繊細なんだとか、選ばれたセンスの持ち主とか言うが、仏教的には、煩悩に振り回された悪魔の道を行っているに過ぎない。実は、欲ばかりで「貧弱」。それを認める必要がある。それは、ないものをあるとする、病気的気質や変態なだけ。自分が、弱く、周りに振り回らされがちな、変態だとは、自覚したくないのだ。弱々しいというのは、欲望に振り回されるだけの人、という意味で「繊細」とはなんら関係はない。繊細とはスキルであり力だからだ。

 

たとえば、やな奴がいたとする。たんにそれだけだ。神経質になれば、その人があるだけで、倒れたり、発作が起きたり、気分が悪くなったりする。人は、たんにそれだけで、いちいち気分や体調が左右される。しかし、病院に行っても、ストレスか薬を出されるだけだ。いなヤツなのに、そんなやつに粘着して、年から年中批判したり、殺したりする。

 

これは、相手が悪いのか? 一部の極悪人を除いて、それだけ神経質で不安や恐怖体質なのは、欲求不満や周りや自分への、過度な期待値がある証だ。ないものをいちいち「ある」として、現実的に、そんなことになる人がいる。満たされない欲求を、いちいち会社や学校の人間関係に置き換えて一喜一憂している。所詮、仕事や勉強などは、たんにそれだけなのに、満たされない対人関係をいちいち満たそうとするから、無茶苦茶になる。とるにたらない人までに、承認や安心を得るために、バカな振る舞いや解釈までしたり、過度に期待するあまりに、精神的に病む人までいるが、所詮仕事や勉強など、たんにやるだけ以外には特別なことはないが、それに付随してくる対人関係に過度に振り回らされたあげく、本業まで疎かになる。挙げ句の果てに、「心を閉ざす」ようになる。

 

よく性格が悪い奴が、成績やスポーツができるのは、周りに振り回されにくいからである。しかし、嫉妬する気遣い人間は、周りに振り回されるだけで、なにも成果は期待できない。「性格が良い」「主体性」がないから、嫉妬して、結局、性格が悪い奴より成績不良な陰湿になる。結局、周りが悪いわけでなく、それだけザコというだけの話なのだが、なかなか自認はできない。根拠のない自信まで身につけて、自分より弱い敵をつくりバーチャルに騒いでいる現代人をイメージすれば、いかに「弱い」かわかる。「特別」でもなんでもない、打ちひしがれた自分である。三度の飯より、自己演出や見栄えを気にする割には、実力や人間性が大したことがないのは、結局のところ、対人関係に雁字搦めになって、小手先のことしか目に向かなくなるからだ。

 

よく、くだらない大騒ぎを課題に評価したりするのは、手先の世界しか見えないからだ。手先の世界しか見えないのは、チンパンジー並みの認識力になってしまっているからだ。チンパンジーは、腕を切断されても、視野に入らなければ、しばらくすれば、「ヘラヘラ」しているし、気にしない。人間もそうなる。

 

不安が恐怖が強い人や自己否定が強すぎる人が、自分に危害を加える状況や人を作り出す場合がある。それだけ大した人間ではないのだが、期待だけは人一倍で、身構えているわりには、大したことはない。過緊張により、実力など出せないし、対人関係もクソだからだ。あげくに、身内や家族に八つ当たりや巻き込む性質があり、自分の性格が悪いかは理解できない。

 

分が悪くなれば、変な価値基準で人を判断したり、病気を振り翳して周りが逃げられないような状態をつくりはじめる。

宗教や屁理屈を持ち出す。感謝しなくてはならないことまで、全否定しはじめたらもうつける薬はない。そんな親や社会に依存はしているが、不満だけは、一丁前になる。クズを批判しながら、立派な自分もクズであることは、なかなか理解はできない。しかし、人一倍、そんな情け無い自分を理解して貰えないし、理解して欲しいから、「なにがわかる!」というお決まりのセリフが吐ける。しかし、他人を、理解しようとはしないし、そんな対話能力など、家庭や学校で身につけてくるはずはない。なぜなら、そんな、低質なコミュニティに自分が属しているなど、わからないからだ。

 

世の中には、残念ながら、ハイソサエティな関係性やコミュニティに生きている人がいて、メキメキ力を蓄えているが、なにも身につけてこなかった機会に恵まれなかった「普通の家庭(自分ではそう思っている)」人たちは、なんら学習や既得コミュニティや恩恵から疎外されている。

 

だから、そんな情け無い人たちは、共依存や自立しない狭いクソみたいな家族や親族に閉ざされるしかない。しかも、そんな人間だから狭い人間関係で、一喜一憂して地獄に突入する。

 

そんな人が、自分が、「ありもしないことをある」とするような病気的、変態的気質の持ち主になるのは当たり前だ。大した生まれでもないやつが、自分の先祖は…とか有名人の知り合いだと、語り出す繊細でも特別でもなんでもない、変なヤツという事実、真実があるからだ。さらに、真面目や道徳を振り翳したり、傷つく人もいるみたいに言っても説得力に欠け、人生観も薄ペラく型にハマっているだけで、「弱々しい」。だから、孤立しているから、周りもサポートなどしてくれるはずもなく、相談的な人が、身近にいれば、愛情関係を確認できるが、そんなのがあるはずはない。自分に軸や人生がなく、「弱々しい」から、ありふれた真面目くん意見しか言わないでいるからだ。なぜか、攻撃的な自分を出せないのは、「自信がない」からだ。自分を守れる人は、法律を犯さないレベルで、反撃するが、弱々しい「自信がない」「自分がない」ために、お気持ちや考えをいちいちブログに書いたりする。

 

負け犬の遠吠えと、「自分が悪意にすぐに負ける」という事実のギャップが理解できない。

すると、とたんにキモいことに気づけないし、弱々しく、打ちひしがれて、真面目を演じるかないだけで自尊心を保つようになる。

 

仮に、身近に、必要以上に、不安や恐怖でビクビク疑い深い人や、去勢を張ってシリアスになっている人は、お笑いものの痛い変人だ。それは、「自分に酔ってる」ということだ。

 

自分酔いしている人は、神経質体質で、偏りやこだわりが強い場合がある。それは、自分のエゴに縛られているからだ。だから、へんに固い性格だったりする。

いちいち、波瀾万丈というが、災いをもたらして、すごい人生を送ってきたかのように演出する。よほど戦争や事故がない限り、人は、無自覚の「演者」である。

 

自分がいかに、ないものを勝手にあるとして、妄想と煩悩の世界にいるただの変態だ、と自覚してからは、俺はあまり、自分に酔うのは恥ずかしいことだと自覚している。神経症体質は、いちいち周りに語るものじゃないな、変態自慢なんか、他人が理解できないのは、当たり前だと今は思う。それだけ身勝手な解釈をしていたら悲劇なのは当たり前だからだ。

 

自分が悪質で恵まれない(あるいは、にもかかわらず、周りの人の力で今がある)と悟れた分だけ、ようやくマシになれる、というだけの話だ。