心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

言葉尻に反応 些細な言動に反応

言葉尻や些細な言動にやたらと反応し、噛みついたり、気にしたりするときは、大抵は、欲求不満で、表明でしか見てない。

 

というより、自分が見た現実に、「意味」や「欲求」を生み出しているのは、自分で、三次元的な現実には、そもそも、確信的、絶対的な「意味」はない。

 

常に、現実は絶えず変化して流れているし、消え去るものでしかない。

 

しかし、いちいち、自分、他人のことを逐一確認していたら、人も他人も動けなくなる。

 

そういう雁字搦めの、エゴの牢獄を、それこそ無意味に作り出すのも自分だ。

 

流すことができないのは、不衛生だし、人のなりゆきや流れが分からないせいだ。

 

人の言動を気にしないのではなくて、人の言動など、現れては消え去るという事実を理解すべきだと思う。

 

いちいち、言葉尻に反応して、自分の稚拙な欲求を叶えたい自分がいるだけだ。

 

人の欲求が許せないと言い募り、他方では、立派に自分も他人の欲求を認められていない自分もいることにまるで気づかない。

 

見せかけの現実に一喜一憂しているのは、自分で、上辺だけの現実に突っかかるのも「自分」だ。

 

そんな「自分」もやがていなくなる。

そんなことで年から年中「反応」している。

 

それくらい敏感なのではなくて、ひたすら自分の欲求で、「反応」しているだけだ。知覚的、感覚過敏なだけの、お気持ち表明マシンになっていないか。

 

いかに、周りにいちいち反応するだけの「マシン」になっていないか、気づくだけで、簡単に、自分勝手な感覚主体にストップをかけることができる。

 

世の中のニュースや天気も大事だが、「振り回される」のは間違いだと思う。

人の「言動」、自分の体調も、いちいち反応して、確認していたら、うまくいくはずはない。良い意味で「流せる」のが、仏教的には真理に根差した生き方だ。

 

いちいち「食い下がる」のも、他人のためにも自分のためにも微塵もならない。