心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

なんだかなー

少し気になる人が何人かいて、「説教」したくなってが、やめた。だから、殴り書きで、自分なりにアウトプットしておく。内容は、仏教とか病気関連。以下は内容。

 

 

 

病気を手放す

思考を手放す

勉強を手放す

無常さえで手放す

解決も手放す

すべて明け渡す

そのとき「神」は現れる

そのとき、神は自分ではない

「外」にある だが、たしかに神は自分を外から動かしていることをしる

体を鍛えようとか

勉強をしようとか

病気を治そうとか

なにかをしようとすれば

自己否定は強まる

知識欲や

顕示欲は

病気の一形態

怒りの潜在意識

 


自分の中の「悪」を内観する

つまり

社会

周りの人への怒り嫉妬

社会に居場所がない

仲間がいない

劣等感

弱さ

逃げ

卑怯

卑屈

怠け

焦り

無力

他人任せ

詭弁

優越感…etc

 


この悪や弱さや欲を観るだけで、勉強よりよっぽど役に立つ 自分がいかに愚かな悪をばら撒いているか 一応、108個あるらしいが勝手に調べてくれ

 


欲を

「すなお」に認める

 


自分は頭が良くてまともな人間という虚栄心は捨てる 頭よく振る舞おうとしたり、「自分の目」人の目が知識あれば、人は、動きづらい 思考と自分の目を閉じて、内観する 内観とは、真理に目を開くこと。真理とは、無常、それだけ。あと、苦。あと、人は基本的に不浄だ。動けないのは、見えない欲や思考荷物妄想だらけだから。動くには「身軽」が最適だ。勉強してもこだわらない。現実に一致させようとしない。知行合一の知とは、知識ではなく、真理の知恵だ。知恵は流れている。宇宙の流れの合一であり、知識への自己同一などない。

 


それに対して、人は、基本的には、なにもできない。カルマの芽も開いたら、基本的に訂正はできない。行いの結果は消せないが、現在から別のカルマの種は撒ける余地はある。

 


そもそも、自分はむしろ、大層な人ではない

卑小で知識欲ばかりの人

なにもできない

たんに思考、欲の奴隷と認める

知識があっても「足りない足りない足りない」ばかり。毎日読書するのは、基本的に熱心ではなく、異常だ。知識欲も実は良くない。しかし、きちんと「観る」ことだ。観るとは、思考を挟まないことだ。考えて考えて考えて考えて知識を深めて知識を深めても、結局身体は不調になる。なぜなら、身体はお構いなしだからだ。勉強しようがしまいが。頭がよかろうが悪かろうが自律神経や身体は勝手に動く。

 


思考から離れる訓練はできる。なぜなら、思考を、意識化するのが人には可能だからだ。

 


ひたすら思考を離れる捨てる

手放す

必要最低限でよい。考えるだけ重くなる。もっと「軽く」なる。軽くなると、いつか、「流れ」になる。風や川や空気、大気、宇宙は、流れだ。無重力だ。人間だけが「重い」。勉強ばかり、欲張り、思考ばかりでは、「重い」。

 


知識ばかりでは「思い」は「重い」

思考や知識は、頭が重い 痛い 頭に気が集まる 

動けない。流れに思考は邪魔だ。あるがままとは、ボーっとすることではない。真理な「目醒める」ことだ。

 


見えない重量や徳や世界があると知る

見えない世界には、不徳が積み重なる

いくら良かれと勉強しても

周りや過去や現在に恨みがあれば

勉強すれば、自分の悪徳は積み重なる それが行為になる。それは、必ず「重く」なる。知識と世界は、不一致だ。合一はない。知恵とは真理だ。心理とは流れであり、止まらない流れだ。そこには常はない。

 


極論いえば、悟れば90%以上の病気は治る これは間違いない 自分の中の思考は綺麗さっぱり捨てる 自分も周りも、最初からいない。たんに流れ、生滅するものでしかない。本当は、精神病も、血縁関係などないし、国境もない。過去も未来もない。今だけが変わりつつある。永遠に統合失調症の人などいないし、永遠に癌の人などいたことはない。それが「現実化」する種を持っているのは、生命のカルマだ。

 


内観とは観ることだけだ。観るとは、過去や未来を脚色したり知識や知恵で誤魔化してはいけない。いちいち宇宙を川を体を思考を分析する必要がない。たんに「目を見開け」ばよい。それが眼差しだ。愛だ。愛のエネルギーには、病や魔が刺さない。魔が刺すとは、愛が足りないからだ。愛とは、波動だ。性愛とか恋愛は所有欲だ。愛とは、波動だ。分け隔てや選別がない。

 


怠けを「知識欲」で誤魔化してはいけない。そこには魔がさす。だから、すっきりしない。人間が心地よいのは、クリアでスッキリしているときだ。内面の鏡はすぐに汚れてしまう。内面の鏡に学問知識が書きなぐられていたら真っ黒だ。ことばばかりで、なにも見えない。

 


安易な自己主張や自己紹介はしない。自分語りはしない。しても、すぐに忘れ去る。そんなものは、すぐに変わる。

 


励んでも励んでも人生は、無常、苦だけだ それを認めることだけが、「真理」だ。真理に目覚めないなら、いつまで苦は付き纏う。自分は、悪に目覚めて、自分がいかに不浄かを知るのが、先決だ。勉強ばかりして、自分の愚かさに気づかない勉強や、真理に目覚めないならそれは勉強ではなく暇つぶしだ。

 

 

 

頭に詰め込みすぎたり

考えすぎると

頭が不調を起こす

 


勉強をやめる 読書はやめる。世界文学を読破しても精神分析を知っても、なにも見えない。むしろ「鏡」は真っ黒になる。簡単に消せないほどに、びっしり鏡に文字が書いてある。そんな鏡で正常に自分の顔は見えない。真っ黒な鏡から見た世界は真っ黒だ。

 


真理に委ねることを知らない人は、世界を暗黒に染める。自分の鏡の闇を現実世界に反映する。どんなに外界に目覚めても、内界に無頓着なら、エリートでも世界は破綻する。

 


そこに「神」を直観した生があることをしらないかぎりは、病気さえ治る余地はない。

 


思考や分析や知識に、世界との直観を邪魔をする人は、欲の世界で、さらに苦しむはめになる。勉強はやめる。思考はやめる。それまでのライフスタイルにこだわらない。まったく、とらわれないときに、生がシンプルになる。どんなに書物を読んで書いても、欲の沼は深まる。読むべき本より、観るべき内を見ないかぎりは、邪魔なだけだ。