心の書庫

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内的規範から神経症を捉える

今回は、超自我について。すなわち内的規範のことだ。本来なら、超自我は、厳しいしつけや、親の教育のように、言われ、無意識からの欲求を、しつける規範や秩序に思われる。

しかし、現代日本で、厳格な規範やルールは、価値観の多様性や混乱により、むしろわかりづらくなっている。

さしあたり、コンプレックスが刺激されて、みな「資本主義の価値観」に、外面的なステータスに超自我的が影響を受けている。それを早合点して、「母からの愛」を代理できると勘違いしているが、神経症性格者の親が、人を愛するわけはない。

 

たとえば、容姿コンプレックスが刺激されて、「美しくなければ恋愛できない」など、勘違いしたり、神経症性格者の特質からすると、現代の情報化社会は、コンプレックス塗れの、内的=外的規範による、圧力が強い。「ありのまま」でい辛いし、許されない。生きづらさは、経済的側面ではなく、「資本主義の勝ち組」や「トレンド」に左右される。こういうとき、神経症性格者は、コンプレックスの要請に、反応しやすい。ただでさえ、母子一体の安定感がないのに、依存体質なので、外面やトレンドに拘り、「外的成功」を規範化しようとする。

「ありのままの自己」は、そのまま無視され、インフルエンサーやネットの人気者や、ブランドや、リア充、勝ち組の「トレンド」に乗ろうとして、かろうじて外面的な成功と、無意識の欲求を叶えようとして、叶わないと超自我の自罰的願望により、そんなささいなことで、自我は不安定にる。むしろ自我が不安定というより、そもそもきちんと発達していないために、「自分の無意識の願望」=ありのままの私や、本当にやりたいことや、やれることが分からなくなり、劣等コンプレックスが刺激されると、神経症的反応を示すようになる。資本主義には、必ず負け組が現れるが、神経症性格者は、「外的規範」に拘り、いたずらに、超自我の「罰」を継続する。コンプレックスが刺激されて、ほんらいの穏やかな自己は無視され、「やたらとネットや周りの価値に左右される神経質」が発達する。叶わないとなると、途端に、病気は悪化するか慢性化し、継続する。

たとえば、負け組になると、自分を必要以上に負け組、底辺、フリーター、ニートや学歴や容姿を気にするが、これは、資本主義価値観で、人を「値札」で裁くわけで、神経症性格者は、こういう価値判断を「内的かつ外的規範」に置き換え、超自我の自罰を繰り返し行う。「親から愛される」代理行為は、「勝ち組」にならないと認められなくなる。こうなると、コンプレックスに「同一化」するようになる。コンプレックスの刺激が強すぎて、無意識過剰になり、自我は不安定に晒されつづける。近現代以前なら、たんに厳しい父親や周りの人達だったものが、いまは、それは、「情報」になった。ありのままでいたいが、「そのままではおまえはダメ」が、神経症性格者の特質である。「そのままのおまえはダメ」なら、資本主義で、ズタボロになるまで勝ちつづけなくてはならなくなり、やがて敵わないとなると、抑うつ神経症や、退行する。SNSも、愛され、批判されないために、無条件な「母の愛」を求めるが、社会やネットがかなわないとわかると、退行的反応を見せる。つまり、幼児期のトラウマが固着し、際限なく、再現する。自我はどうしたらよいか。情報化社会で、「なにかひとつでも」大事な恋人、課題、目標、目的を、自我は、現実原則的に、少しづつやることだ。外的規範、内的規範に資本主義の価値観を持っている人は、神経症カニズムから逃れられない。「時代が変わってもなにか大事なもの」がある人は、自我が安定的である。これがない人は、その都度、神経症反応から逃れられない。無意識のコンプレックスに刺激されて、必死に勉強ばかりしたり、学歴ばかりを求めたり、肉体コンプレックスから、筋肉ばかり鍛えたりする。それは一見すると建設的だが、悪性のナルシストである。コンプレックスは、必ずしも悪いものではないが、コンプレックスに同一化する人は、東大に行っても東大以下の人を馬鹿にするようになる。つまり、学歴があるのに学歴コンプレックスから逃げられない。筋肉を鍛えたのに、途端に肉体的に弱い人を見下したりするようになる。ナルシストはこのように、コンプレックスに人格が置き換えられる。幼稚なコンプレックスに対する、超自我も働かない場合、幼稚で性格が悪くなる。こういう人は、コンプレックスの奴隷なので、「外面な成功」を手に入れても、結局、見下される。神経症反応を治すなら、自我が、自分だけの幸せがなんなのかを知って、コンプレックスを認め、無意識の要請に無理なことはやらないし、ダメで弱い自分も、バカな自分も理解して、ありのままと知っている。それが賢い大人である。周りがバカだと思う人こそ、残念ながら、いかに周りが見えていないか、賢くないかを露呈している。神経症反応である。親や社会や周りの期待に応えることが心底染みついた依存型の神経症者は、「反抗」できない。大人は、「そんな価値観は間違っている」と、自立し、自分の価値観を語るだけなく、生きる人であり、それが反抗期を経た普通の「大人」である。

神経症反応は、「周りから認められる」ばかりで、自我がまったく安定しないし、なにをやっても、成長しない。「周りから認められる」なら、自分の意見や感情を無視して、必要がない人にさえ応えるようになり、やがて空虚な人生から怒りが湧くようになって、やりたいことをやっている人をひたすら憎むようになるが、反抗できないのは自分である。「大人」は、周りに認められるために発言などしないことが、神経症者には理解できない。自分のために意見や感情を述べるのは、普通の人はできるが、神経症者は、周りに認められるためには、反抗さえやめて、完全に奴隷、依存を強め、母から愛されるための依存性を強固にする。悪性の、真性マザコンやナルシストは、このように破壊的で、攻撃的で、あり得ない「一体感」を死ぬまで求める。

 

神経症が慢性化している人は、よほど、心的欲求不満か、現実離れしている。それくらい努力できるなら良いが、努力していないなら、自分の生き方を本気で見直さないと、「ありとあらゆる価値観や神経症症状や、他愛のない他人の奴隷」で、人生を無駄にする。どんなに生育環境が良くなかったとしても、病的な真性マザコン、ナルシストである自分を認めない限り、未来はない。空虚さからくる、怒りや抑うつ神経症症状に悩まされる未来しかないと自覚し、現実原則としての自我を、本気で見おし、やるべきこと、やる必要がないこと、かなわないこともあると自覚しないと、いよいよ、まずいことになるだろう。まともな自我は協力したり甘えたり、頼ることができるが、ナルシストは「孤立」する。母への愛憎があるため、マザコンの自分と「そうではない自分」に揺れる。「母から適切な愛を受けなかったか過保護のために」マザコンで依存体質になった。しかし、それは、自覚と、弛まぬ自我の現実的努力で、変わってゆける。ありのままの自己は、自分も周りも許せる。厳しい人ではない。もっと自分を認めても良いし、ダメで弱くて良い。「外面的な大人」は、いますぐにやめるべきだろう。時代や親がなんと言っても自分を生きられることが、大人であり、自我ある人の振る舞いである。いつまで神経症の症状を自慢している限り未来はないし、そういうナルシストは、そもそも治りたくない。謙虚にしていても、嘘つきなのは、周りにばれていていることに気づかないが、巧みに神経症症状を生み出して、現実を回避したがる。問題は、コンプレックスを認めて、成長するか、あるいは、「このままでも自分は大丈夫」と自我が調停役をできるかである。

神経症を治そうとするのではなく、「課題を現実的にやっていたら症状なんか忘れていた」が、神経症者には大事だ。もとから、心的な現実や欲求不満が強いために、現実的努力がし辛いのだ。毎日しつこく、課題に取り組む。その間、神経症を忘れられることに、「集中」する。神経症者が、自我が弱く、瞑想をやっても続くわけはないので、「好きなことに集中して取り組む」。これが大事だ。好きなことがないときや飽きたら、日常生活や雑事を無心でやる。森田療法も同じことを言っている。神経症者は「自分を忘れる」のが苦手なのだ。ひたすら目の前のことをやり、神経症を無視してよい。やれることを、ひたすらやる。そしたら「気づいたらわすれていた」になる。私も、赤面症が治ったというより、気づいたら気にしなくなっていただけだ。「ひたすらやる」が神経症者はできない。すぐに病気を話したがる。しかし、病気の話は一切しない。これを守る。病気の話をしたいときは、またナルシストの自分を擬人化して、突き放すか、自我が脳内対話で、調停する。ナルシストやマザコンは必ず治る。「気づいたら」恋人や目標が叶うようになる。なぜなら、ナルシストが治ったからである。そうなるまで、しつこくやる。無心、無我、無常を「生きる」。それが、真の道である。無意識からの必要以上のクレームや症状は無視するべきだ。目の前のことしか人はできない。当たり前で、確実なことだ。神経症者は、葛藤があるために、やらないと責めたがる。しかし、「やらない自分もよい」ひたすら許すのが必要になる。