ある種のフロイト主義というか、自我心理学者、精神分析学の特徴を典型的に表したような考えがある。
現実を見るか見ないか、その差が現実の結果を決定します。
国家にしろ個人にしろ同じ事です。
神経症も幼い時の親子関係とか、自分に関する苦痛な都合の悪い現実を見ないから起こるのです。これまで見ていなかった現実を見さえすれば神経症は基本的に治ります。非常に単純な事ですよ。(岸田秀)
これは、岸田氏だけの特別な意見ではなく、精神分析的なフロイトの考えとして一般的だ。
しかし、夏目漱石の作品には、たんに精神分析的にはすり抜けてしまうような、人の「溝」というか差異があり、不一致のまま、過ぎ去ってゆくしかないような現実が描写されている。
柄谷行人が、彼岸過迄において、敬太郎を、精神分析と探偵の手法として論じている。
本来なら、敬太郎は、他人に対しての精神分析で、人の無意識までをありありと分析できている。
未解決事件における探偵のモチーフは、ある種の反探偵小説ではあるが、知性上の問題でもある。
なぜ、人は、分かり切ってもなお、なにもかも「未解決」なのか。
フロイトのやり方に、カタルシス療法もあるが、すべてを一切、告白したら方がつくと思う松本というキャラクターのような考え方は一般的だが、果たしてそうか?
とは言え、他方、須永は「すべてを知っているが」自然に帰れない。
「存在すること」の問題は、単純に世の中に片付くなんてものは殆んどありやしない という道草のメッセージから読み取れないだろうか?
一遍起った事は何時までも続くのさ。
ただ色々な形に変るから、他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。
これも、夏目漱石だが、フロイト的だ。抑圧された(忘却された)ものの回帰は、まったく違う方になる。
夏目漱石は、写生文の境地から、それを見切っていた、ということになる。
だから、たんなる精神分析家の、先
を見た。
精神分析の限界と、写生文という形を示したという点で、注目に値する。