心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

気持ちで神経症を捩じ伏せることはできない

 

苦痛、煩悶に対して、自分でこれを除去しようとする努力は、禅の言葉に、「一波をもって、一波を消そうとすれば、千波万波、こもごも起こる」といってあるように、自分の心の波で、自分の心の
波に対抗するのであるから、その心は、ますます錯雑紛糾すべきはずのもの
である。

自分の心を制しようとすることは、ちょうど物によることがなくて、自分の力だけで、身体を空中に持ち上げようと
するようなものである。

この臥褥中の患者の煩悶は、しばしば患者が転転反側するようになることもあるが、その苦悶がはげしいほど、かえって治療の目的は適切に達せられるのである。患者がその苦悩の極に達するときに
は、ちょうど突貫戦における「最後の五分」というように、わずかな短時間の中に、その苦悩は、自然にたちまちあとかたもなく消え去って、ちょうどはげしい疼痛が急になくなったときのように、急
に精神の爽快を覚えるようになるものである。私はこの心境を名づけて煩悶即解脱というのである。


けっして一点の思想によるものではない。まったく感情の急激な消失によるもので、感情の自然の経過である。この体験は、多くはわずかに二、三時間のうちに行なわれるものである。けれども中には、この煩悶がはっきりと起こらないで、あるときは不定に出没して、第四日、第五日までも継続するものもある。特に患者が喫煙するとか、緑側に出てくるとかするときには、精神がこれに転換され、慰安されるために、みずからその経過を長くするものである。この時期を私は仮に煩悶期と名づけるのである。
次に第三日には、患者に自分で昨日のような精神的経験を再び起こすように工夫させて見ても、けっしてその空想、煩悶は、前日のように、引きつづいて起こらない。かえって前日のことを興味ある
追想として、みずから慰めるようになる。

 

 

感想

 

実は、自分の考えや気持ちは、あまり持たない方が良いし、それを発表したから「治る」わけではない。森田正馬は、気持ちを表明するのではなく、とくに不快な感情は当たり前として、そのままゆけ、と言っている。

 

我流に拘ると、邪道に陥るし、危険な意味不明な妄想やエゴイズムに陥る。

 

会社や家族であれ、自分の気持ちの発表会でないし、残念ながら、自分の考えや気持ちが、主人公の世界ではない。自分のトラウマや気持ちを「ぶち撒け」ても、自分も周りも混乱が生まれるからだ。

 

コミュニケーションやスポーツや芸術など、楽器など、基本的にはテクニックである。自分勝手には、基本的には出来ないし、ルール違反になる。自由な発想や創造もパターンによる。

 

何でもかんでも、気持ちの問題ではない。神経症なら尚更だ。私は、気持ちで、神経症を治せた試しはない。気持ちの問題ではないからだ。神経症には、意識の偏りがあるから、意識の集中が狂っているから、そういう「しくみ」の問題なのだ。

 

不安や絶望や恐怖も、結局は、自分の気持ちを拡大させているだけでしかない。

 

気持ちを持ちすぎは、基本的には、毒ではある。

 

不安や恐怖も、死に対する拒絶や、生の過剰な欲だ。森田正馬が言うのは、必要以上に持つ生の欲望を不安に繋げて考えているからだ。繊細さではなく、仮性の、偽の主観的な幻覚作用に近いことを指摘している。

 

意識しすぎて、完璧主義に陥って、「不快をどうにかしたがる」が、そんな必要はない。不快は当たり前だからだし、失敗など元よりだ。

 

森田療法を実践する人は、「その苦悶がはげしいほど、かえって治療の目的は適切に達せられるのである。患者がその苦悩の極に達するときには、ちょうど突貫戦における「最後の五分」というように、わずかな短時間の中に、その苦悩は、自然にたちまちあとかたもなく消え去って、ちょうどはげしい疼痛が急になくなったときのように、急に精神の爽快を覚えるようになるものである。」という煩悶即解脱を忘れてはならない。

 

「波をもって、一波を消そうとすれば、千波万波、こもごも起こる」ということも大事である。