心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

「観察」とはなにか

そもそも、外界の現実などは、内界の反映、色付けに過ぎない 人は、それに一喜一憂している。夢みたいなものだ。 一喜一憂しないで、内界を整えるために、呼吸、身体を整えるのが最適だ。 世の中を操作するのではない。呼吸に同期して、「無常」を観察するの…

相手の中に、自分の心があるわけではない

そもそも、神経症患者は、自分も他人も「観察」している。悪く言うと、話は聞いてないし、周りの人にそもそも関心はない。人一倍自分に関心があるが、しかし、自分が向き合うには弱い性格気質と強気の板挟みになってしまう。 そうやって、神経症患者は、自分…

会話は、内容より流れや雰囲気が大事

神経症の人や対人恐怖の人が、やたらとコミュニケーションにごたわり、とらわれるが、話は基本的に流れで無内容で構わないのだ。 よほど重要な会議やプレゼンやなにか議事会、儀式などではないかぎり、基本的にコミュニケーションは、形式でありスキルであり…

神経症の問題を自分の問題と認められたら半分治ってる

よく神経症者が、◯◯の境遇や、家族や、こんなニュースや事件を目撃したから病気になったなど滔々と話す。 しかしながら、人の生はままならない。 よく、病気の人は、病気をカムアウトするが、神経症の人の場合は、病気の話はむしろしないほうが好ましい。 と…

知識欲はとらわれの牢獄

よく、森田正馬の本に、やたらと知的な神経症者が出てくるが、本当に不思議で有る。しかも、知的にもかかわらず、症状が治まらない。 というのも、どんなに頭が良くても、知識や探究が、神経症や生きづらさを解消してくれるという回避的な言動をしているから…

人のやってることの「深い意味」などない

基本的に、神経症であれ、他の精神病であれ、なにか裏や意味があるのではないか、と思い込み、さらには、その妄想が確信に至る場合がある。 とは言え、人のやってることは、基本的に心情の色付けされた浮世の夢、妄想、思い込み、煩悩、人それぞれの業であり…

人の気持ちが分かるだろうか

心理学者、河合隼雄は、人の心など分かりはしないと逆説を言っている。 そもそも人の心などありはしないし、分かりはしないのだ。あるとしても、それは、煩悩、業である。心はフィルターである。 真理は、因果法則、業だけだからだ。 だから、感情や欲求や上…

フランクフル 百足のたとえ

フランクルは、神経症者、とくに自意識過剰な人は、まるでムカデが自分の足の動かし方を意識しすぎて、前に進めず、出鱈目に動いている様子をたとえた。 意識や理論は、基本的に、人間の自然な流れを阻害して、不自然でぎこちないものになりやすい。 人の「…

「症状」に服従する

神経症者は、しばしば、滑稽でエゴイストで自己中心性が高いと言う。 しかし、神経症者は、意外と、自分の性格を惨めと感じつつ、虚栄心や自我が強いと言う側面がある。弱々しく、他方は、強く神経症を隠そうとする強弱が激しい気質なのだと言う。 実際に、…

体得 それがシンプルで難しい

神経症治療には、結論からすれば、良くも悪くも諦めてしまうのがよい。 場合によれば、服薬も悪くはない。重要なのは、とらわれとはからいの、作為だからだ。 患者が、治す意志があっても、しばしば、理論や、意識や知恵や、森田療法の本ばかり読むことがあ…

「参った 往生した」それでよい

症状に負けて良いし、治らなくても良いのだ。 しかし、「頭の理解」で、それで、よくはない。いくら、ありのままでよいと、「頭の理解」をして、ひたすら頭で唱えてもしょうがない。 「参った!」という、これを「腹に落ちる」必要がある。 潔く、観念して、…

解決型思考、問題発見思考

神経症の人の気持ちには、問題をわざわざ作ったり、見つけたりして、「解決」しなくてはならない、というこだわりがある。 森田正馬が言ったありのままとは、神経質な人には、わかりづらい。 ある意味で、ありのままとは、「問題があって基より」というスタ…

変化を迎えていく「一年生」

人間は、恒常性があるが、あくまで、それは外観の話だ。人は、成長や老いを止められない。 じつは、変化を拒むのは、無知な態度でエゴで、幻覚だ。 変化への恐れではなく、恐れや不安によって自我が、変化を拒み、世の真理を否定する無知な態度だ。 世は常に…

仏教的正見とオカルト(迷信、思い込み)の違い

納得ができない“前生の業” 問い お寺によく参るおばあさんが「この世のことは、すべて前世の業による」と 言われました。私は納得できません。仏教では「業」「前世」をどのように説いているのでしょうか。 答え この世には説明のつかないことや、またどう考…

神経過敏のしくみ

精神の調和作用 この原理はまた一面より見れば、精神の調和作用ということによっても説明することができる。屋外のブリキ屋の音はやかましく感ずるけれども、自分でたたくブリキの音は、自分の耳の近くであるにもかかわらず、邪魔にならないのはなぜか。これ…

主観とはなにか

なお主観とか、体得とかいう言葉の意義について、少し説明を加えておかねばならない。 そもそも主観または体得ということは、感覚、気分であれ、反応、行動であれ、そのもの、その事柄自体の意味である。 批判を離れた直観とか自覚そのままのものである。 禅…

理想から見下ろす癖 思考パターン

神経症者は、事実を無視して、「理想」から自他を見下ろす。あるいは「思想」から、思惑や欲望から、ギャップを生み出す。自分を責めて、さらにありえない妄想や完全にこだわる。たとえば、人から嫌われたらどうしようと考えてしまうが、嫌われない人などい…

心と身体の調和(ハーモニー)河合隼雄

僕が思うのは、結局心と体というのは関連していて、自我っていうのは、心と体の両方のコントロールできるんですね。で、心も身体も一つの全体として動いているわけね。で、全体としての動きの中で、自我をもっているというのが人間の非常におもしろいところ…

気持ちで神経症を捩じ伏せることはできない

苦痛、煩悶に対して、自分でこれを除去しようとする努力は、禅の言葉に、「一波をもって、一波を消そうとすれば、千波万波、こもごも起こる」といってあるように、自分の心の波で、自分の心の波に対抗するのであるから、その心は、ますます錯雑紛糾すべきは…

あるのはエゴイズムだけ 仏教編

残念ながら、人には、欲求、煩悩、エゴイズムしかない。 自分は正しいと思っている観念上のことは、あくまで主観的でしかない。 外側にある決まりや正義や法律は、あくまで、外在的なもので、人の内側を表すものではない。 人の内側が、実は、主観的なエゴイ…

心の置き所を間違えない 

また患者の訴える苦悩そのものに対しては、これはもともと最初に心のおきどころを誤ったために、ますますその苦悶を増長せしめたものであって、これをもとのありのままの自然にかえせば、苦悩はたちまち消散するのである。 自然というのは人生の実際の事実で…

常に不安であるという安心

また既往の(神経症の)異常時のことを追憶して夢のように感じ、あるいは、なぜあのような考えを起こしていたか、自分で不思議でならないとかいうような患者もある。 こうなって患者は、はじめてよく、「夢のうちの有無は、有無共に無なり、迷いのうちの是非…

自分の身体ばかり観察するクセ

なお主観とか、体得とかいう言葉の意義について、少し説明を加えておかねばならない。そもそも主観または体得ということは、感覚、気分であれ、反応、行動であれ、そのもの、その事柄自体の意味である。 批判を離れた直観とか自覚そのままのものである。禅で…

人工的の拙策に雁字搦めになるな 森田正馬

それ故、思想の矛盾を打破するということは、寒さは当然これを寒いと感じ、苦痛、恐怖は当然これを苦痛、恐怖し、煩悶はそのまま煩悶すべきである。 いたずらに人工的の拙策をもてあそんではならない、ということに帰着する。 これはつまり私たちが自然に服…

人は、不快感にさえ執着する 森田正馬

不快感情の執着 上にあげた心悸亢進発作のようなものは、特に実例について、その発作の発展と経過の状況を少しくわしく観察すれば、もっとも容易に、これが精神交互作用によって起こるものである、ということが知られる。なお、その他単純な頭痛、めまいとか…

気を紛らわそうとしない

ありのままとは、雑念や恐怖や不安がありながらも、やるべきことやれる「大人」な態度であり、なにもしないで開き直ることではない。 よくベテランのピッチャーが、悪いなりにまとめました、というが、それが「プロ」である。 しかし、いちいち幼稚な理想や…

真の痛みではない 仮性幻覚とは

自己の内部(主として身体の一部であるが観念的なものでもありうる)への投射である。これは内部投射と名づけてもよいであろう。 (胃の痛みも、胃潰瘍などの真の痛みではなく、痛みの仮性幻覚であり、それはその患者の不安がそこに投射されたものと考えられる…

ありのままとは 

新聞を讀む事も、談話も、手仕事も、喫烟も、又苦悶の起る時に自ら氣を紛らせるやうな事も一切全く禁ずるのである。其の目的は若し空想なり煩悶なりがあれば、之が自然に起るべきに起り、其の苦悶は自然の成行きに從ふより外に途のないやうに、患者の境遇を…

今回は短めに 事実本位とは 森田正馬

神経症において大事な事実本位とは、苦、無常であり、避けられないということ それに直面すること。 たとえば、恐怖や不安がなんともないのだから、幽霊を信じる人に、幽霊なんか科学的にらありえないのだから、しっかりしろよ、という客観的な科学の知見に…

頭の中で勝ったつもりにならない

自分や他人も、よく分からないままに、自分は、なんとなく優位性を感じたり、でっちあげたりするのが、神経症者の自尊心だ。神経症者は、とくに主観的になりやすく、器質的な病気がないのに、主観的に体のあちこちに異常があるという。それは、まさに幽霊や…