心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

森田正馬 神経症に悩む人々のために

すでに第二念、第三念ともなれば、いろいろの迷いにおちいり、これ が悟りだと思ったとしても、それはもはや悟りではない。 禅定のときにかぎらず、われわれが何かに驚き、あるいはよろこぶときは、純一な自分そのもの であるが、ハッと我に帰り自分の心境を意識するとき、それが初一念である。 この自分そのもの、 すなわち純主観が自己本来の姿である。自分の頭の重さを意識せず、あれやこれやの取越苦労もな く、ただ仕事、あるいは遊びそのものになりきっているとき、それが本来の自分であって、このと き生の力は最大限に発揮されるのである。

 

このことは、私が扱っている神経質の治療にあたって、 はっきりと認めることができる。たとえば、本人が頭痛、耳鳴、胃の不快感、便秘、心悸亢進など を気にし、それを病気だと思って心配し、強迫観念にとらわれて取越苦労するとき、それらの症状 はますます悪くなり、しまいには仕事も手につかなくなる。ところが、これらの症状がありながら も、とにかく仕事に手を出し、いやいやながらもやっているうちに、いつの間にか仕事そのものに なりきり、煩悶や取越苦労を超越したときに、これらの症状はまったく消え失せるのである。なぜ ならば、これらの症状はじつはみな精神的な執着からおこるもので、本来けっして実質的なもので はない。それなのに神経質者の場合、判断の誤りや心の迷妄によって、ひどいときには寝たきりで 頭が枕から上らぬような重い症状さえおこり得るのである。判断の間違いや、迷妄の執着がいかに 恐ろしいものであるかが、これによってもわかるのである。 さて、事物にたいするわれわれの観察判断は、観察判断の主体すなわち我と、客体すなわち対象 との相対関係によって成り立つものである。とこ 自己の内界の事象 で、相対関係によって成り立つものである。ところで、観察判断の対象には、外界の事象のほかに、
自己の内界の事象すなわち自己の身体や心の変化や異状がある。

たとえば前かがみになって股の間から外界を見るときには、その景色が異様に見え、自分が自動
車に乗っているときと、通行人として自動車を見るときとは自動車にたいする感じがまるきりちがい、政治をする者とされる者とでは社会にたいする見方がちがう。また、自分が満腹のときとひも
じいとき、酔ったときと醒めたとき、恐怖したときと平静なときとでは、同じ対象がいろいろに変化して見えるのである。

だから、われわれが正しく観察し正しい判断を下すには、まず、自分がどんな立場から観察する
か、ということをはっきりさせなければならない。それを忘れては、正しい判断ができるものでは
ない。それにはよく自分を観察して、感情にとらわれない公平な立場から客観的に観察できるよう
に練習しなければならない。先入観とかとらわれとかとは、自分を観察せず、自分の立場というものを度外視して物ごとを判断するためにおこるものである。たとえば、自分は死ぬことがおそろし
いという感情的な立場から世の中を見るときには、その感情に支配されるために、諸行無常、是生滅法という人生の事実について考えることさえおそろしくてできない
。そこで、何とか安心できる
ように事実を曲げて自分の都合のよいように判断しようとし、その結果いろいろの縁起や御幣かつぎがおこるのである。あるいはまた、憂鬱な悲観的な気分に苦しんでいる人があるとすると、その
人はその苦痛からのがれようとして無理に楽天主義な人生観を工夫し、 世の中の事実をゆがめてまぜしようでも安心を得ようと努力する。そこにいろいろの迷信妄想が生ずるのである。このような場合には、しずかに自分を観察して、自分が死の恐怖、あるいは憂鬱な気分にとらわれていることをつきとめ、気分は気分、仕事は仕事と、はっきり区別して考えるとき、そこにはじめて正しい人生観が生れ、
自分をも外界をも事実に即して正しく判断することができるようになる
。酒好きの人が「酒は百薬の長」とか言うのは、酒をのまずにいられない自分の気分と、酒が人にあたえる害毒とを区別して
考えることができないためにおこる迷妄である。
また現在の社会にたいする感想でも、自分の立場を明らかにし、一方では古今の社会現象を頭に
置き、もう一方では広く生物・人類の現象に目を配っていくときに、はじめて正しい判断ができる
のであろう。禅の方で、初一念からしだいに連想がおこるにつれ迷妄になるというのは、自己の立場と外界との関係を明らかにできないことからおこる迷妄を、しだいに重ねていくからということ
ではないだろうか。