心の書庫

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人が生きていれば問題があるのが普通

神経症者は、症状があるから問題だと言う。だから、症状がなければ、と必ず言う。だが、症状があろうがなかろうが、やりたい放題とは限らないし、努力や、継続や業楽が、症状がないから出来ると言う理由には一切ならない。「症状を理由にしてなにかをやらない」のが、目的論的には、神経症的態度だからだ。それは、多岐にわたる。とくに自律神経系の症状が多い。

 

人が生きる以上、問題がないわけがない。と言うか、生まれた瞬間から、問題が発生していると言ってもよい。出生にはストレスはかかるし、呼吸をしなくてはならないし、食べないといけないし、母親が死んだらどうするか? 父がいるか、そもそも産み捨てられたら人が自力で生きるのは、ほぼ不可能である。

 

むしろ、生に問題が一切ないなら、もはや生物は、たんに死に向かう生物だ。死ぬ寸前まで、人は、問題だらけだ。しかし、神経症者は、自然に服従しないままに、「自然体」をのぞむ。そんなものは、実はない。自然な人間関係とか、問題がない人生などない。たんに、意図の多寡に個人差があるだけだ。癌になっても、気にしても精一杯生きようとする人もいるが、「異常に」気にする人もいる。そう言う意図の「強弱」の違いがあるだけだ。神経症者は、強いエネルギーを、なぜか、完璧主義にむけてしまう。しかも、必要があるかわからないこだわりに。エネルギーの使い方が、おかしいか、分からないのだ。フロイトがリビドー的欲求の妥協的態度と言ったが、本質的な不安や欲望と無関係、無意味な反復に繋がる。それが、不合理と分かっていても、繰り返すのが、神経症である。問題や現実に、適切な距離やコミットができないのだ。よく、緊張や不安で、訳の分からないことをしている人がいるが、まさに、アレである。

 

人の営みは、無機質に言えば、たんに生き死ぬだけになるが、人の営みがそう単純なはずはなく、自然や宇宙もときに災害になる。本当は、問題をなくすより、問題がありながらその都度生きるのが態度としては普通だが、神経症者は「問題が解決するまで動けない理由」をつくる。

 

神経症者は、症状や人間関係を、「完璧」に治したり埋め合わせたりしたがるが、その実、問題を、解決して、全てなんの問題もなくしようとしているが、ほぼ不可能だ。

 

しかも、人間関係は、かなり流動的で、ままならない。人間の意志決定だけで、なんでも動くはずはない。内臓、呼吸もそうだ。ぎこちない人間関係、気まずい、うまく話せないなど、色々な人間がいる以上は、そんなものは普通に決まっているのであり、気にしないのが、それこそ普通だ。

 

問題を放置して良いわけでもないが、問題を解決したがる、気にすることばかりが、正しさではない。その見極めが必要になってくる。必要なのは、問題に対し、どのような態度や距離が取れるのか、と言うことだけだ。