心の書庫

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オリンピックを否定する言葉とは?


2021/04/18 14:19

革命は行動である。行動は死と隣り合わせになることが多いから、ひとたび書斎の思索を離れて行動の世界に入るときに、人が死を前にしたニヒリズムと偶然の僥倖を頼むミスティシズムとの虜にならざるを得ないのは人間性の自然である。 -革命哲学としての陽明学三島由紀夫


こういうとき、三島由紀夫の思想は、「左派的」な言説や、戦後世代の我々の生活や、常識からしてみれば、奇矯で突飛な、ある種のラディカリズムに映るかも知れない。

実際、三島由紀夫は、自衛隊突撃、自裁した。それは、我々には、奇行に見えたのではないか? 

しかし、その三島由紀夫の行為は、我々が、いかに、イデオロギーや日常の時間や、常識に縛られているのか、戦後社会の欺瞞に浸っているかを、我々に突きつけるものだった。


さて、つぎに、坂口安吾は、実は、特攻隊を否定していない。

ならば、三島由紀夫坂口安吾は、「右翼」だろうか?

私は、昔、坂口安吾を読んで、意外な言葉をみた。

坂口安吾は、エッセイ、特攻隊に捧ぐで、次のように言っている。

私はだいたい、戦法としても特攻隊というものが好きであった。人は特攻隊を残酷だというが、残酷なのは戦争自体で、戦争となった以上はあらゆる智能ちのう方策を傾けて戦う以外に仕方がない。特攻隊よりも遥はるかにみじめに、あの平野、あの海辺、あのジャングルに、まるで泥人形のようにバタバタ死んだ何百万の兵隊があるのだ。戦争は呪のろうべし、憎むべし。再び犯すべからず。その戦争の中で、然しかし、特攻隊はともかく可憐かれんな花であったと私は思う。

坂口安吾は、体制支持的な、いわゆる礼讃、戦中の日本の兵法を肯定的に言っている言葉が散見するが、それは、我々が、いまだに戦争を「ほんとうに」観ていないから生まれる誤解だと言える。

実際には、坂口安吾は、たんにイデオロギー問わずに、戦争というリアルを場当たり的な解釈抜きに、見たのだ。

つまり、人は、強要であれ、なんであれ、純潔に殉死しうる場合があり、あるいは死に慄きながらも、それに向かう人を見たのだ。安吾は、それを否定しなかった。

けれども私は「強要せられた」ことを一応忘れる考え方も必要だと思っている。なぜなら彼等は強要せられた、人間ではなく人形として否応いやおうなく強要せられた。だが、その次に始まったのは彼個人の凄絶せいぜつな死との格闘、人間の苦悩で、強要によって起りはしたが、燃焼はそれ自体であり、強要と切り離して、それ自体として見ることも可能だという考えである。否、私はむしろ切り離して、それ自体として見ることが正当で、格闘のあげくの殉国の情熱を最大の讃美を以もって敬愛したいと思うのだ。
特攻隊に捧ぐ

坂口安吾は、たんに、戦争を、イデオロギー的な反対、賛美に陥っていない。
切り離してみた人の実相の肯定者だ。

だから、ある種の右翼でありヒューマニストたりうる。いや、それを越えている。

これは、武田泰淳にも似たような光景がある。それは、作品にも現れる。武田泰淳は、戦争の荒れた野原で、無政府状態の日本に、なんともありゃしない日常を発見する。

これは、安吾に似ている。しかし、これは、いわゆる「生活の優位」ではなく、どんな井戸端会議の主婦さえ死体に慣れる、ということだ。

そこで、安吾の有名なフレーズに繋がる。

半年のうちに世相は変った。醜しこの御楯みたてといでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋やみやとなる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌いはいにぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。

夏目漱石が、現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるという事に帰着する、という旨からしても、夏目漱石坂口安吾三島由紀夫武田泰淳などが、ヒューマニズムイデオロギーに立脚していない、ことが分かる。

彼らの「観た」現実は、真の近代日本のあるべき姿の側にいたということになる。

さて、オリンピックは、世相の上滑りだろうか? 答えは、簡単だ、その通りだ。

しかし、坂口安吾のように、我々は、オリンピックに立ち向かう選手たちを、絶対否定の言葉を、イデオロギー以外には持ち合わせているか?

もし、オリンピック開催に、死体が累々と転がってゆくなら、我々こそ、「決死」の覚悟で、選手たちを止めるべきだ。

しかし、スポーツ選手は、スポーツをしたく、しているし、我々スポーツファンはじつは見たい。

誰がこのパンデミックで、大谷翔平にうつつを抜かしたと否定が出来るのか? 

明日、かりに世界が終わるとしても、経済が死滅しようと、浮気しにゆく人や、世の中とまるで関係のない、自分の悩みや誹謗中傷で自殺した人を見てきたなら、分かるはずだ。
そこには、我々の「言説」が遅れをとらざるえない優位がある。だが、我々は、無自覚に、言説に留まっている。

しかし、国民は、依然としている。つまり、誰も、基本的に無名の累計上の死体など興味などないのだ。当たり前だ。それは、「情報」だから。

どんな日常だろうと、戦後、井戸端会議をしながら、主婦が、死体に慣れてゆくことに、今更、疑問の余地はない。人は、じつは、危機的状況、クライシスや死の後ろ暗い誘惑やスリルを楽しんでいるのを誰が否定できるのか。非情だろうか。 否、人は、ハナからそんなものだ。パンデミックだろうと、浮気したい、文学研究したい、そういうものだ。谷崎潤一郎が、戦中に細雪に取り組んだのは、まさに、谷崎が、それをよく知っていたからだ。志賀直哉谷崎潤一郎の、ある種の泰然自若は、太宰や芥川龍之介のような「自意識」とは、なんら無縁だ。

坂口安吾三島由紀夫も、我々の「政治イデオロギー」など、最初から空虚な飾り程度にしか見てない。坂口安吾三島由紀夫は、べつに俗悪な体制支持者ではない。たんに、その実相を観ただけだ。

彼らが、ある種の本質主義、すなわち死を前提にした「決死の」行動の優位にこそ人を見出した。つまり、それは三島由紀夫葉隠に繋がる。

オリンピック選手たちは、なにがなんでも、明日死ぬとしても、例えば野球で100マイルで頭部直撃で死のうとやりたいのだ。彼らスポーツ選手は、明日世界が破滅するか分からないにしても、スポーツだけが必然であろうとする、行動の優位を示している。




たとえば、人殺しや自殺や特攻、戦争、オリンピック、近親相姦や親殺しを、「常識的に」あるいは、「イデオロギー」的に否定するのは容易い。どんな「言説」も、そういうイデオロギーに回収される。

人は、オリンピックを否定するし、観念上しか、否定しえない。「人道主義」の立場から。

なら自殺であれ殺人であれ、仕事であれ、命をかけて「なぜ」いけないのか、という絶対的問いに、絶対的に我々は、自分の言葉で答えられず、行動の優位が現れる。

例えば、いま、このパンデミックで、スポーツや経済活動や生殖行為は、ある種の殺人行為に加担することだ。

しかし、それを、人は「常識的に」やめただろうか。やめてない。

結局、いまだに、私は、オリンピックを否定しうる、必然的な「言葉」を、「決死」に紡げない。

いつだって賛否あれ、結局、歴史は、決死の側にあるのではないのか? そういまは、結論づける他ない。

最後に、小林秀雄は、次のように言っているのを引用して終わる。

独裁制に神経過敏になっている教養人たちに、ヒットラーに対抗できる確固とした人生観があるかどうか、獣性とは全く何の関係もない精神性が厳として実在するという哲学があるかどうかは甚だ疑わしい。 小林秀雄

いずれにせよ、観念上に立脚した、生活の絶対的優位や保証の言葉など、じつは、我々の生活の側にはない、ということになる。

坂口安吾は、それを知って知らずか、無頼だった、と言えないだろうか?