最近、また煙草が吸いたくなっている。
一度、貧乏をしてから、金がないし、臭いし、母親もうるさいし、そんなことから、とうとうやめてしまった。
ひょんなことから、コロナ禍も重なってタバコとコロナの影響とか、いまいち科学的知見は分からないが、絶対によくなさそうなで、ますます吸うことから遠ざかった。
さて、今回は、気晴らしに、エッセイのノリで、煙草をテーマに書いてゆきたい、と思う。
煙草に関しては、まずは父親、祖父が吸っていた記憶からはじまる。
父も祖父も、不良系というより、真面目な勤め人という感じの人で、下品な感じではなかった。とは言え、気品があったわけではない。吸いたいとも憧れも、父へのいわゆる精神的な「同一化」があって、煙草を吸いはじめたわけではない、ことは確かだ。
最近、俺は、煙草のきっかけ、あるいは、吸うことについて、もしかしたら、という仮説が思い浮かんでしまった。
それは、同性愛(ホモセクシャル)だ。
タバコと同性愛、なんの関係があるのか。
そもそも、自分がはじめてたぶん文学というものを読み始めようとしたとき、なんとなく三島由紀夫とか川端康成のイメージがあって、それを読み始めた。
たしか三島由紀夫の文字通り、煙草という作品だったように記憶している。
しかも、俺の頭の中には、なぜか、戦後の麗らかな晴れ空の下で、森の中で三島由紀夫が煙草を吸っているようなイメージというか、映像が頭にこびりついて離れないでいる。
これだけ聞くと、お前、ちょっと病気なのではいか、と思うかもしれない。
とにかく、経験したこともないイメージが俺は、小説を読むと、勝手に、まるで体験したかのように入ってくる場合がある。それは質の良いトリップとも言える。他作品では、安部公房の砂の女も、まるでそこに行ったことがあるかのような錯覚がある。
戦後作家と言うと、大体が、煙草を吸っていたように見える。写真からしか分からないが、見たかぎり、川端、三島、安部、吉行淳之介、開高健など、俺の好きな作家は、吸っていた。
きっと、俺は、その人たちと男性的な繋がりが欲しかったのではないか、と推測している。
さらに、俺は、イギリスのロックが好きで、とあるミュージシャンが珍しく煙草を吸いまくるイメージを引っ提げてミュージックシーンに出てきて、影響されたのだと思う。
(ちなみに、最近の文学とかミュージーシックシーンは、スポーツとか健康志向の高まりから、負のイメージや不健康は締め出されている)
俺は、そういった男たちとの親密というか、イメージに煙草という関係性を持って、参加したかったのだろうと、今は思う。
要は、その煙草の紫煙の中で、男たちが、ちょっと古風なホモソーシャルというかそういう若干、同性愛的な、空間に憧れていた可能性が、高い、ということに気づいたのだ。
実際、煙草を吸うことに、本来、なんのメリットもない。金も健康も損ねるのに、吸っているということは、やはり、損をしてまでも、どうしても、その「男たち」に近づきたい、という思いがあったのは、否定できないと感じた。たしか、三島由紀夫の煙草も、先輩へのただならぬ「憧れ」ではなかったか?
よく、口唇期?に付随して、母の母乳を求める口先が煙草を求めるかのように分析があるが、なんとなく、そういう精神分析的な解釈は、腑に落ちない。そんな単純なことだろうか。
結局、俺は、久しぶりに思い出した、三島由紀夫の煙草という作品のおかげで、煙草と同性愛のイメージとして、結実することになっている。
三島由紀夫は、その鋭敏な感性で、煙草と同性愛という奇妙なセクシャリティを作品で示したと言う点で、画期的?というか、陳腐な感想だが、すごいな、と思った次第だ。
三島ほどの作家になると、たかが煙草でも芸術に昇華してしまう。
だが、俺にとって、煙草とは、たんに苦い思い出と、飲みまくったコーヒーと損なわれた健康と、無駄になっただけの「名もなき時間」となって消えていっただけだった。ここに、教訓は、なにも、ない。