開高健 花終わる闇 感想
人生が一歩も進まない、進めないという停滞感は、作家が、作中で『漂えど沈まぬ』と題名を決めたが、書き始めることができない停滞感にオーバーラップ出来はしないか。
私と、置かれた心情は違うが、重ね合わせて読むことが出来た。
そういうとき、寝ては覚め、食べては、女と戯れる。
とはいえ、私は女と気軽に戯れる気概や境遇にはないが、なんとなくわかる気はする。優雅で怠惰な暮らしとは、そんなものかもしれない。
ちなみに、女の身体に戦争を彼方に見るというモチーフは、今日では、よく見かける気がする。
私がこの作品が未完ながら思慕を寄せるのは、夏の闇と同じく、共感を超えたところにある。
行き着く先をしらない生が、あるいは生きた痕跡が、まるで万年床から抜け出た湿っぽく生暖かい痕に見える。
この作品は、寝床というイメージが強い。
寝静まり手応えのない食事は、やがて栄養補給のように成り果てる。
食事をし、性に爛れ、題名を決めかね、作品を書き進めぬ、停滞感は、苛立ち、焦りを、作家を通して、僅かに摑める。
中年にも、モラトリアム青年にも、必ず、行き詰まりがある。
頭の中では、観念を掲げ、掴みかける。そして蘊蓄と美食の羅列が虚しく通り過ぎてゆく。
だがいつまでも筋が定まらない。現代病みたいなものか。
それはこころでは決めかねる、吹き溜まりの生があり、剥き出しの性器や食欲が、露出したような行き詰まりを連想させる。
女と男は裸にはなるが、結論には至らない。
自意識のベールは剥がれ、身も蓋も無い生活が現れてくる。それでもなお、女にも生活にも溺れぬダンディズムというか、理性の安全地帯にいるということが、男の最期の切り札というか生命線のように感じる。だが、知性的、理性的ということは、生への直に驚きから遠ざかる。
開高健は、とくに観察的な作家で、溺れることを知らない。ある意味、悪いところでもある。
まるで、漂えど沈まぬ。
作品書こうとも、書けず。題名が、作品の急所をつきすぎた結果、一歩も進まない生は、尻切れトンボに終わる。
題名があまりに核心的でありすぎた。
作品もまた未完だが、ありきたりな言い方をすれば、その未完もまた、大半の未完の芸術作品のように、完全の証なのかもしれない。