心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

サブカルと文学の敷居

ぼくは今でもそうだが、一人のサブカルチャーというか「おたく」商品の作り手として、その意味を商品価値以外の何ものかに一切見出せないでいる。/「おたく」の精神史1980年代論 大塚英志

この「おたく」商品でしかないものへの、彩飾とか文学性だとか哲学性は、基本的に欺瞞だろう。

だが、むしろ、庵野は、おたくの自意識やコンプレックスとして徹底し、宮崎駿は、確実にその「中身のなさ」に気づいてただろう。

のち、庵野エヴァ、宮崎は、もののけ姫に結実するわけだ。庵野と宮崎の対談で、それとなく匂わせている。90年代、当時のエヴァもののけ姫は、コントラストが効いている。

個人的には、一部のオタクは90年代のエヴァを未だに引きずってるのが気になる。
劣等感や自己嫌悪の裏返しのスノビズムとして、まだ、良くも悪くも、断罪されていないと思う。

サブカルの、要らん過剰な知、パロディ、元ネタ、あるいは歪んだ権威主義というか、「オタクスゴイ」式の歪んだ礼讃に違和感があるのは、まさに一部のオタが、庵野のメッセージをまるで理解してないというか、あるいは、庵野側に押し付けがあったと思う。

Twitterから、流れてきた言葉から、村上龍は、次のように放言している。(出典不明)

『ハートに火をつけて』の中に、文学性を読み取ったような奴は、クズの中のクズだ。村上龍 


村上龍の言わんとすることは、分かる。ようは、我々は、とにかく、高尚であろうとして、文学や哲学に収斂させたがるが、大きな間違いだ。

サブカルやオタクカルチャーのスゴさは、むしろ、中身のないおもちゃであり、大塚が言わんとするような、「おたく」商品の作り手として、その意味を商品価値以外の何ものかに一切見出せないでいる

以上の点ではないのか。

オタクスゴイというイデオロギーは、べつに、アニメが「深い」からではなく、むしろ、徹底的に、中身のない、洗練されたスノビズムにあるわけで、それ以上ではない、ということに尽きる。それは、村上隆のようなスーパーフラットにたどり着く。

この点を理解せずに、いまだに、ナルシシズム的に、定期的にネットで、おたくが吹き上がるのは違和感を感じる。

自覚すべきは、おたく「商品」としての質の高さであり、スノビズムの凄さではない。日本のアニメがスゴイのは紛れもなく商品としてではないか。