心の書庫

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夢としての女性 夏目漱石

個人的な感想から始まるが、仮に女性の魅力とすれば、幽玄だとか死とか、霊的な資質を認めざるえないのでは、と思っている。

『幽霊図(お雪の幻)』wikipediaより

昨今、女性を、叩くような意見がネットに散見される。
が、実際のところ、それは、ローカルレベルでは、ありふれたミソジニーがどうとか、アンチフェミだとか言った言説の域を出ていない。
極論言ってしまえば、たんに悪口であり、イデオロギーの応酬であり、現実感のある女性への罵倒というより、単に悪いイメージへの八つ当たりに近い。

ラカンの有名な警句からしても

「女は存在しない」という言葉がある。
あるいはボーヴォワールが実存的に「女になる」と言っても、いずれにせよ、女は、最初から、どこかにはいないし、叩きようがないほどに浮世離れしている。あるいは、女は、「化けて出る」と言える。化粧にしてもその意味がある。

さて、男たちは、いったい女性の「なに」を叩いているのか。
あるいは、仮に叩くべきかは、答えとしては、「霊」である。

女性を「霊的なもの」として見るには、文学や歴史的にも枚挙に暇がない。

女性は、霊的な素質者であり、巫女などの神職霊媒が、最高位ということになっているのは、否定の余地はないだろう。卑弥呼などは有名だ。

女性の統治や支配は、常に神秘、祈祷や霊媒に関わるということになる。




結論からすれば、男は、「女性」の霊的な素質に取り憑かれるか、唆されて、怯えている。

男は、知的に武装するしかない。男は、ある種のゴーストバスターズ化しているともいえないか。

あるいは、「女」に取り憑かれて暴力が止まない御仁もネットには溢れているが、彼らにこそ、「霊媒」か「除霊」が必要なのだ。

義憤によって女叩きを止めようとしたり、叩くのはモテないからだとか、潜在的な同性愛願望とか、ホモソーシャルだとかは、私は関係はあまりないと思う。

たんに「取り憑かれている人」に、現実的な話は通用しないというだけだ。

大事なのは、「男」の側に潜む、その女であり、どこかにいるような対象化しえない、叩ける手応えはどこにもない、ということになる。

男たちが近現代、科学や合理性で、敵対しても消えようのない、その女と霊性については、私からしても、不毛な闘いに見える。

要は、我々は、「お化け屋敷」の中で、たんに態度を問われているに過ぎないということになる。

最後に、夏目漱石夢十夜の、一夜を引用する。


第一夜

 こんな夢を見た。
 腕組をして枕元に坐すわっていると、仰向あおむきに寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭りんかくの柔やわらかな瓜実うりざね顔がおをその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇くちびるの色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然はっきり云った。自分も確たしかにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗のぞき込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開あけた。大きな潤うるおいのある眼で、長い睫まつげに包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸ひとみの奥に、自分の姿が鮮あざやかに浮かんでいる。

女性はやはり、「あちら側」にいるのだ。

我々は、このような「夢」の女を手懐ける術を、未だ知らない。