社会という言語的なシステムに、一見「適応できた人間」と「適応できなかった人間」がいるとして、「適応できなかった人間」の方が正しいんだというのがフロイト=ラカン派の一貫した発想です。「心の病気だから治しましょう」と人は言います。確かにそれで社会は安定して回るかもしれない。でもラカン的には「治しちゃっていいの?」という問題です。治せば、郡司さんのおっしゃる隠蔽が起こるんじゃないの?ということ。むしろ、言語に閉じ込められてシステム化していく社会が病気であって、「適応できない」ことの中に本質があるんじゃないの?と。