こころの足音

消費、娯楽を通じて、記録ついでにレビュー

せめて個人らしく

  1. SNSへの幻滅
  2. 2ちゃん的なものへの再評価
  3. そして幻滅へ

 

1 SNSへの幻滅

 とある思想家とやらが、ツイッターをやめた、と宣言したことをタイムリーには知らなかったが、ツイッターをやめるとか、今更知った。というのも、私自身も、ツイッターはしばらく見てなかったし、2011年くらいから使用していなかった。大分前に、黙って引退した感じだ。あまりのノイズや軋轢の多さに、辟易したのだ。私は、辛抱強くないタチで、ストレスを感じやすい体質で、早くから、「ここはダメだ」というなにか、心身症的な、潜在的な怒りの抑圧、あるいは温床を感じていた。今でも、感想は一切変わらない。いまは、ログインもしないで、恐る恐る、見世物小屋を見るような気持ちで、たまに見ている。

 

 

  さて、インテリ層は、ネットに、「民主主義」を期待していたのかもしれないが、やはり、今でも懐疑的だ。いや、
懐疑的とか、どうとか言っているものではない。私は、その男がツイッターをやめたということは、「思想の敗北」
すなわち、民主主義の敗北というパースフェクティヴで見てしまった。オピニオンよりも、私的領域や、幼児的妄想に退行したような
「妄想」が、民主主義に負けた。

すなわち、「ポストトゥルース」ここに極まれり、と受け取ってしまった。これは、拡大解釈だろうか。

たんなる思想家のおっさんがたかだかツイッターをやめた側面と、笑うに笑えない三島由紀夫自衛隊特攻ほど勇ましくないが、女々しい態度の思想家ツイッター引退は、私は、同列の、自決を感じさせるのだ。

 


それとも、一部のインテリたちは、「夢を見過ぎた」のだろうか。

 ツイッタ―をやめる行為は、勝手に恋をして、勝手に失恋してみせる思春期の女の未練がましさのように、去ってゆくときまで、わざわざ、「わたしいっちゃうのよ」と
言ってみせるようなしみったれた行為にしか思えなかったが、問題は、思想家の性格的な欠陥だとか、そういうことではないように思える。むしろ、思想家を、そういう風に「機能」させてしまったツイッターを生み出した我々の磁場にあるのだ。
 
 単純に、個人の意見がポピュリズムに負けたのだと言えばいいのだ。ここは、負けないといけないだ。負けないと、次を考えられない。
そもそも小市民インテリの意見など、ツイッターですること自体「痛い」とか「お門違い」なのかもしれないが、それを実践して見せ、
結局は、インテリは敗北したのだ、と自滅したのだと捉えれば、このプロセスは、無駄には思えないし、重要なサンプルになると思う。

 

ツイッターを政治的イデオロギーや言論の空間や、民主的空間に期待をした、アラブの春を想起させるような「企み」は、
結局、とある社会学者の言葉によれば「言葉の自動機械」や「法の奴隷」になどの神経症を患った、「症状」を吹きあがらせた。

 

匿名と孤独の先で、
妄想的な呪詛たちが、悪貨が良貨を駆逐すると言わんばかりに、
 オピニオンと錯覚させられるかまともなオピニオンさえを埋もれさせるように作用しかしなかったように思える。

つまり、
オカルト的にいえば、「呪詛」だとか「怨念」などの「私的感情を公的意見であるかのようにふるまった連中」に負けた、といえる。

 勝ち負けで見れば、個人の知性的意見などは、「ヘイト」に脆くも敗れ去ったのだ。


 思想家の、現状を顧みず群れあう左翼と中身の欠片もないルサンチマンむき出しのネトウヨ的バカげた「右翼」双方に対する、憤りも理解できる。双方はヘイトを根本にしているし、ヴィジョンに欠けている。書き込みも、取り繕ったような、テンプレを意見だと思っている。


 そうだ、やつらは、「なにも語ってない」のだ。あれを、石破茂はデモで「ただの雑音」と称したが、私は、一部、同意できる。はたして、「意見」はどこにいったのか。

 「やつら」は、工場長のパンの製作をモデルにして、せっせとライン作業でクソ以下のパンを再生産しているだけだ。

 


 イデオロギーや主義は、ファッションに還元されたようなシールズやクソキモいカルトセクトのような若者のセクトに半分は、期待しつつも、同時になにか、物足りなさや浅学さ、
憤りを感じ、さりとて、ネトウヨ的な「患者」も受け付けないこの「立場」とはなにか。

 

これは、間違いなく、「個人」のことであり「知性」だったのだ。すなわち「わたしの個人主義」的立場のことだ。もう一度、そこから、近代化をやり直すような視座が必要になってくる。

 

ストーリー仕立てで考えるなら、個人の知性は、事実敗北したとみてもよいと思う。妥当性がないと知れただけマシだ。

実際、20歳前後のどうでもいい可愛い小娘がネットでもリアルでも「影響力」を放ち、そんなさりとて大したことのない
スポーツマンや芸人の声くだらない掲示板や動画サイトのコメントが、
「もっともな意見」として扱ている言論の世界は、まさに、ネオデモクラシーである。

 

政治活動で
「ちょっと目立った」だけで「識者たちと繋がり」、裏口入学しているような利口な連中を見れば、良く分かる。

 

私は皮肉屋でもあるので、
そういう言い方しかできない。

 

我々は、しばしば、議論も徹底できないので、おどけたり、赤ちゃんの画像や動物の映像や、綺麗な風景をみて「癒され」
「議論を徹底しない」、「敵を消したことにする」ということが、民主主義を、破壊する。

あるいは補完しているのだ。悪夢を。
 

悪夢とは、具体的に言って、論理的、社会的に効力のある「妥当性」ではなく、いかにポイントを稼ぎ目立ったものが「勝てば官軍」の世界なのだ。


 ここに、「絶望」しないとしたら、よっぽどの見事なクズの証拠であり、よほどの楽観的なカスである。それは、たしかに幸せな生き方だ。
 ここに「絶望」しているのだとしたら、それは狂っているのではなく、むしろ正常なのだ。たしかにそれは不幸な生き方だ。

 つまり、匿名性であるがゆえに、クソもミソも一緒の論法で、より目立つキチガイやアイドルなどの著名人、作家、スポーツマンやネットで有名な人間の
寡頭世界となってしまったのだ。

 

2 2ちゃん的なものへの再評価

 だが、下火になったと思われたあの懐かしの掲示板はどうだろう。
 反対に、私は今、旧来の2chのような匿名の掲示板を、相対的に評価しはじめている。2ちゃん(5ch)って意外とクールじゃないか?と。(本当は、そう思いたくないがw)


 頭のねじが緩んだ狂った意見も、ロジカルな意見も、巧い具合に「相殺し合っている」「一見すると地獄のような空間」がいかにも、無秩序的な秩序空間で、すみわけもできて、曖昧な暇人連中は、それを知って、なんjや大学板などのような
帰属意識や同一性を見せているが、それは、すみわけや排他もあるが、節度もあるということである。

 ツイッターは、レイヤーはあるが、すみわけが基本的にない。

マストドンみたいな小宇宙ではなくて、突然、何ら訓練もしていない新兵が、アムロやシャアに勝てと言っているような世界で意見する世界だ。しかも彼ら/彼女らは、すでに「ポジション」を持っている。貯金があるから、くだらない意見も「グッド」はしばらく安泰なのだ。あなたが、ニュータイプなら、良いが、ほとんどは、凡人なのだ。私も同じだ。小賢しい屁理屈しか出てこない。


とつぜんインフルエンサーと同じ地表に立たされる。有名アイドルや芸人や一般人ツイッタラーの「猛者」とポイント稼ぎの
言語ゲームに駆り出される「厳しい世界」となっている。しかし5chは、それはない。コテハンは、痛いし、マジレスは痛いのだ。

匿名性は、クズもインテリも同じ具合に見事に、「相殺し合っている」。どっちが負けている勝っているという「妄想」はマウントでしか
補完できず、目に見える数値で補完しにくい。

 

戦う世界でも「リアルの身体性」持ち込まず、言葉と言葉のぶつかり合いをしているように見える。

 

無論、「どうせリアルじゃおまえアレだろ?」という視点は2ちゃん的な文化には昔からあるが、基本的に顔写真やステータスは、開示されていない。常に、0からの勝負となる。コテハンじゃない限り、貯金がない。逆にコテハンは臭がられる。いくら才能があっても、一躍有名になろうが、あくまで匿名で、寡頭制にはならない。私は、そこが気に入っている。

 

 

 ツイッターは、リアルと身体性を持ち込み過ぎた。そして、数による、言葉の信憑性を、論理的妥当性に見ず、数に見出してしまった。


 現実レベルの妥当性、例えば、「ネットで騒いでなにになる」だとかいって、議論の妥当性や参加を拒否することも、民主主義の破壊でしかない。
 言語レベルの問題や議論は、言語でなされるべきなのだ。ほっこり動画で癒されている場合ではないところに、とつぜん、ほっこり画像や動画が
「流れて」くるのは、そういう「しくみ」なのだ、誰も、議論を徹底したくないし、民主化してほしくないのだ。個人になりたくないからだ。

 ツイッターのネガティブな側面は、数の少ないオピニオンを、まるで、無価値にしてしまい、有名人のさも中身のないナルシスティックで中身のない意見を
同じ意見か、それ以上に扱うのだ。

 しかもツイッターの言葉の原動力は、「純粋な正義感」と「ルサンチマン」に下支えされており、感情を基盤にしているがゆえに、理論家や思想家は、
その無秩序以下のポピュリズム的かつ、殺伐とした「クズども」の「人気取り」に、見事に討伐されてしまった感がある。


 2ちゃんなら、ルサンチマン塗れのクズの有象無象の意見、クソミソで群雄しているが、ツイッターでは「立派な意見」と変貌する。


つまり、ツイッターは、言葉を、「人々の欲望の赴くままに」可変させてしまうシステムになっている。特定の民族を排外し、殺すべきという「ポピュリズム」が
勝ちである世界だ。それは、たったひとりの「それはよくない」という「個人的意見」が締め出される世界に近い。ツイッターは感情的な連帯しかしない。
 しかも、欲望の機械のように、振舞って見せる。

 

まともなこと、というのはけして「正義感」の側にべったりした上に言うような神経症的な「症状」でもないし、妄想で連帯する個人ではない。
 

 それらは、何度も言うように「意見」ではなくて、都合のよいヴィジョン、白昼夢ようであり、下ネタ的に言えば、その日のオカズでしかないのだ。

ネットで、自分の意見を言って、「政治参加」したかのような錯覚は、もう、一部の思想家や理論家には、抑えられないほどに、感情的民主主義、劣化は、止まらない。 (暗黒啓蒙としての加速主義)

 

それは、ツイッターをやめるとか、やめないとかの問題では済まされないし、単純に、そういったクズを目の当たりにして、いかに機能的な社会、
いわゆるシンギュラリティに委ねたところで、クズの人間が、民主主義といってもツイッターといってもニコニコ動画といっても、テクノロジーを偽悪的なまでの
才能の無駄遣い≫に費やしているようでは、まったくダメだ。

そんな「ヘマ」をやらかさないと、見てもらえず、ネットでは人権さえない。ネットは、もはや承認、自己像を鏡にするためのツールになった。


 
 実際、特定の人物の「ネタ化」は、圧倒的人気として、もはやネタやコンテンツとして機能しているくらいだ。一部では、「底辺学」とさえ揶揄される
例のアレ的な界隈は、「まともな意見」よりも、圧倒的ポピュラリティを得ている。
 
 この語に及んで、私は、良くも悪くも、2ちゃん的な文化に、期待を寄せている。

 つまりそれは、どのようなインテリからクズからサヨクあらウヨクからバカまで、同じ立場で匿名で語っているというのは、そういうところしかないからだ。

 

なぜ我々が匿名性の世界に希望を見出したのかは、民主主義への期待もあるが、身体や自己嫌悪や、地縁、共同体や社会的な地位から自由だからにほかならなかったはずだ。いまさら地縁社会に再帰するとは、あり得ない。そもそも、それを捨てたのが今なのだ。

 

 どのような理屈家の意見でさえも「マジレス乙」の世界は、単語が長文に勝つまでの潜在力を秘めた「無法地帯」と化しており、私はそういったことには懐疑的だが、
ピンからキリまで、評価される場合もあるすれば、ある意味、ツイッターよりは健全といえよう。

 ツイッターは、「リアル」を持ちこみすぎた。匿名的かつ民主的な空間は、人々を誰もが参加できるというのを「機能させる」働きがあったはずだが、
ツイッターは、先述のように、「リアルの影響力」に還元されてゆく。一般人の中で有名人かつ議員、シンガーなどたくさんのレイヤーの中から、
代議制的に「人気者」が「意見の趨勢を独占している」世界では、言葉よりも身体性を優位に置く。
 可愛いアイドルの意見が、コメンテーターとして招聘されたり、インタビューを受けたり、しょうもない田舎者の成りあがりが立派に本を出したり、
リツイートされる世界は、「オマエラ」が、「どんなにまともな意見をいっても相手にされない」のであって、言葉が「おまえみたいなやつリアルではどうなんだろうな」
という紋切り型の潜在的な淘汰が、ツイッターという言論には「強い力」として機能しているのだ。まるで不勉強、無知、無学、無教養の、近所のネーチャンから、
キッズまでを、同じ土俵にあげてしまう、「糞味噌闇鍋」の世界で、「素人までもが立派な意見」として、間違って機能してしまうのだ。


 私は、こういう世相に対して、時代錯誤的な「権威主義」や「近代主義」に陥ってしまう。

なぜなら、クソもミソも、やはり同じではないのだ。権威のようなプロ意識、階級制や、秩序が、どんなにウザくても、結局、人は、宗教性が基盤にないような日本は、いわゆるモンスターが増殖する結果になっている。


病人の妄想と、政治的意思が、まったく同列か、それどころか、病的、解離的妄想まで「政治的意見」として機能してしまって議席を獲得いる現実は、反吐が出るでは、
気が済まない。
 
 パワーワードと呼ばれる「ワンパンチ型」の人間や声優の意見が「尊重」される世界では、まだ、「2ちゃん(5ch)のほうがマシ」と相対的に、2ちゃん的な
ものを再評価したいと思っている次第だ。

やはり可能性は、匿名性にあると私は、未だに感じてしまう。政治的期待、個人の自由をネットに求めるのは、

インテリが、積極的な言葉の「搾取」にあい積極的「誤読」のさ中で、アイソレートしてゆく一個人の妄想から、
勝手に毎日「切り刻まれたあげくポストに苦情が毎日入ってくる(DM、クソリプ)」が、「民主的だ」と言えるのなら、インテリの浅はかな夢想は、
人間への信頼が過度にありすぎたと言わざる得ない。 

 

私は、加速主義的な「シンギュラリティ信奉」というものは、持っていない。
 なぜなら、人は、どのようなテクノロジーも、さらには、人は人自身でさえも、ダメになるところまでダメになる生き物であることを、人はあまりにも
分かっていないからのように思えてならない。


 私的、公的のあいまいな空間では、テクノロジーに自分を委ねる(ということは解離に似たようなもの)で、ますますパーソナリティ障害的な人間の
温床を作ってゆくことになると思う。いわゆるハンドリングを理性や信頼や安心などのコモンセンスに委ねるのではなく、幽体離脱的な、他力のよる
オートメーション化などは、ますます人をダメにするだけだろう。

 我々の接する「情報」は、いかに人が感情的にふるまうかの「フック」いわゆる釣りがかけられており、
「感情的、脊髄反射的反応」に導くためのもので、みんなまんまとその釣り堀に吹きあがるのだ。

 3 そして幻滅へ

 さて、そんな中で、「個人」を保ちうる「知性」の立場は、あまりにも辛い、ネットもツイッターも辞めたくなるというのは、「心情的に分かる」と
最後は、同情的に言いたいと思う。
 まぁ、私は、ノイズはある程度無視して、続けるだろうが。意見を言うのは、そもそも、やめる、やめないの問題ではないのだ。 

私は、依然、ネットなどは、高尚なものではなくていいのでは、とさえ思えている。でも、これ以上ネット言論空間が居心地の悪いところで、都合の悪い現実の埋め合わとしてのネットでしかないのなら、やはり幻滅は続くだろう。