心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

開高健 夏の闇 感想

 

 

それで…結局、なにがいいたいのか、なにがしたいのか分からない。

そのような領域は非言語的でどう表現したらよいか分からない。

ならば、さあ、あとは釣りをしようか、旅をしようか、美食に耽ろうか、惰眠を貪るのか、あるいは、海に出て鯨と闘うのか…


孤独で無目的、やがて無性格が残り、あとは性と食や暴力や犯罪だけがある。

あるいは、ナルシシズム。それらが、引き伸ばされ、ひたすら薄められて、複製され、現代文学と呼ばれている。

ときに、20世紀の人間像とは、そんなものではないか。文学という分野は、大体、そんなものと私は見ている。

 

人間の本質は心理学と科学とやらが、つまびらかにし、なんら驚きはない。

やがて女たちは医学知識や専門知識を語り、得意げに語る。

そこには病に慄く驚きは少ない。いわゆる知性的女性の誕生である。男はそれを、まるでファムファタールと目を癒す。

 

文学は、ただ古臭く迂遠なばかりのズレた個性を唄うことはなくなり、肉体的、生理的、暴力的、犯罪的になる。まるで、人間の本質と言わんばかりに。

 

そして、人はやがて文学、哲学を遠ざけ、エンタメにスリルを求める。

だが、やがてそれも倦む。

ひたすらに続く倦怠的な日常がある。

そこからは、せいぜい、偏愛や依存が始まる…あとは戦争がなにもかもを飲み込んで行くか。男なら、戦場に、生の条件を見出すか。

なにがしたいのか、どこへゆくのか、男女は身体を寄せ合い、とぐろを巻いて、すぐに離れてしまう。昨日の情事は嘘のように、同じ鋳型の万年床、自室に舞い戻る。

結局、男は、女は、なにをしたかったか、なにを求めたか、明確にはわからない。むしろ、凝視によって不明瞭となり、人間(じんかん)において、繁茂する。

寝て、食べて、戦争をする、人間の本質を、私はそう思わないが、だが、ここには、追い詰められた、あるいは自身を追い詰めることでしか感じられない、確からしさがあるように思える。

ここに足りないのは、昨日まで信じられたような確からしい、人間性や生活ではないか。大半の現代人が失ったのか、はたまた捨ててしまったもの。あとに残るは美食、惰眠、レジャーの羅列。

だが、それを今、確実なものとして信じるものはどれだけいるか。

 


人は、争い、血肉を手摑みにし、手応えを得ようとする。

その方がリアルらしいからだ。それは、真夏にみた不愉快でベトベトとした白昼夢めいたものだ。

だが、実際は、リアルらしいだけの、足掻き、悪闘でしかない。虚しさや倦怠がやがて闇から現れる。

リアリティの欠如は、俄然、肉体的なコミュニケーションを強いる。

わざと汗まみれになったり、汚れたり、爛れたり、膿んだりするが、まだ掴めないものがある。

私は共感を超えてたまに、それを肌で感じたいと思い、この作品を手にとる。

陰気なジメジメした生の実感が不思議と湧いてくる作品だ。

日常に耽溺するか、しかし男は戦さ場を忘れず、女はそれを引き留めようとする…

たがいにビジョンは一致しかけては、離れてゆく。

滑稽なまでに哀しい、コケットで魅了的な女性に、戦さ場を捨てきれぬ私。

メロドラマの型を演じてまでも掴めない、なにか。

やがて2人を照らすは、死の闇だけか。少なくとも、それだけは確実のように思われる。

 

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